13)哲学の終わり
13-1)宮川氏の嘆き
宮川雅巳氏は、パール氏の「因果推論」が、あまりに、独創的で、わかりにくいとして、「因果推論」の解説書として「統計的因果推論 ―回帰分析の新しい枠組み―」(2004)を出版しています。
タイトルをみれば、宮川氏には、パール氏の「因果推論」は、「回帰分析の新しい枠組み」に見えたことがわかります。
ここでの疑問は、どうして
<パール氏の「因果推論」が、あまりに、独創的で、わかりにくい>
と感じられたのかという点にあります。
黒木学氏は、宮川研究室の学生でしたが、パール氏の元に留学しています。
「因果推論の科学」のあとがきの謝辞に名前がでてくる日本人は、黒木氏だけです。
最近、日本では、因果推論の本が多数出版されるようになりましたが、黒木氏の著書を除けば、すべてルービン流の因果推論モデルを使っています。
これから見ると、
<パール氏の「因果推論」が、あまりに、独創的で、わかりにくい>
と感じるのは、宮川氏だけではなさそうです。
13-2)哲学の伝統
パール氏は、本人の発言では、パートタイムの哲学者です。
アメリカの哲学は、パース氏のプラグマティズムの延長にあります。
パース氏は、カント哲学を否定して、形而上学としての哲学を否定しています。
日本では、哲学は皆平等であると見なされていますが、西洋の歴史観は、進化論に近く、古い哲学は問題があるので、新しい哲学に置き換わったと考えます。
哲学者は問題を解くだけでなく、問題を提示することも好きです。
昔の哲学者が提示した問題で、現在でも解けていない問題があれば。問題を見つけた哲学者は、現在でも、現役です。このため、問題の発見者として、昔の哲学者が現在でも引用されます。
形而上学としての哲学が否定された後で、何が残っているでしょうか。
哲学の伝統は、動く前に、考えることです。
思考実験をすれば、行動する前に、その行動には、効果がないと予測できるものがあります。
そのような行動は、無駄で、非効率ですから、避けるべきです。
つまり、行動(リアルワールド)を前提とした思考実験は、形而上学にはなりません。
この点で問題になるのが、数学の扱いです。
数学には、科学としての実証(実験)がありません。
数学は、形而上学である可能性があります。
数学は、自然科学ではない可能性があります。
一方では、数学なしの自然科学は考えられません。
自然科学の科学としての実証(実験)は、数学の論理なしには実現できません。
この問題に対する筆者の見解は、パース氏のプラグマティズムに準ずるものです。
パース氏は、プラグマティズムを形而上学としての哲学の否定の上に構築しました。
このためプラグマティズムの理論は、他の自然科学の理論と同じように、実際に使ってみて問題があれば、修正するものです。
しかし、プラグマティズムの理論そのものは、哲学に準じて、思考実験で作成します。
数学は、演繹法による思考実験です。数学は、理論体系であり、混入した間違いを除けば、絶対的な真理であると考える人もいます。
これは、数学は、リアルワールドと切り離された形而上学であるという主張です。
しかし、筆者は、プラグマティズムと同じように、形而上学を否定した数学もあり得ると考えます。
自然科学において、数学を使った概念(メンタルモデル)は、リアルワールドをみるレンズになっています。ここで使われる数学は、形而上学を否定した数学です。
数学教育では、イプシロンーデルタ論法が重要であると言われています。
しかし、イプシロンーデルタ論法では、微分方程式のメンタルモデルができません。
微分方程式のメンタルモデルは、オイラーが差分近似でつくりました。
科学者は、微分法方程式を差分近似のメンタルモデルで理解しています。
これは、ノーベル物理学賞を受賞した物理学者もいっています。
全ての事象を差分法方程式のメンタルモデルで理解しようとするアイデアが、システムダイナミクスです。これは、余りに乱暴であるというので、システムダイナミクスの支持者は限定的です。
そこまで、単純化しなくとも、微分方程式のメンタルモデルが頭の中に構築できますので、無理に単純化することはないと考える人が主流です。
とはいえ、社会科学では、線形モデルが多用されています。線形モデルも、システムダイナミクスと同様にかなり乱暴な近似です。線形モデルは、ノイズの影響を受けにくいこと、モデルが予測を外したときに、予測結果のメンタルモデルが簡単にできるので、間違いに気付きやすいメリットがあります。
さて、話を戻します。このように、科学の世界では、形而上学ではない数学が多用されています。
13ー3)ウィトゲンシュタインの予言
20世紀を代表する哲学のウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」を書いて、これで、哲学で検討すべき課題は、全て検討し終わったと考えて、哲学を放棄しました。
その後、ウィトゲンシュタインは、言語の完全性を前提とした「論理哲学論考」には、問題があると考えるようになります。
とはいえ、言語の完全性を否定した上で、哲学が可能であるかは不明です。
そこで、ウィトゲンシュタインは、2つの場合を考えます。
第1は、言語は、不完全で、話し手と聞き手の間に共通するルールがなければ、コミュニケーションができないという予測です。これは、言語ゲームと呼ばれます。言語ゲームは、メンタルモデルの共有によるコミュニケーション理論の先駆になったと考えられています。
第2は、言語の完全性が成り立つ分野もあるだろうという判断です。
言語の完全性が成り立つ分野は、無矛盾性が保証された言語になります。
これから、ウィトゲンシュタインは将来、哲学は、数学の哲学しか残らないだろうと予測をしました。
13-4)パール氏の著書
パール氏の著書や論文は、どうして難解なのでしょうか。
「因果推論の科学」を読んで気付いた点があります。
「因果推論の科学」の解説で、松尾豊氏が、次のように述べています。(p.572)
<
本書は、核となる理論的な説明のあいまに、さまざまなエピソードがちりばめられている。(中略)こうした話題自体は、本書をより豊かで読みやすいものにしているが、逆に、先に述べた本書の理論的な骨格が読みづらくなっている面はあるかもしれない。
>
ところが、「因果推論の科学」をよく読んでみると、松尾氏が、「さまざまなエピソード」と呼んだ部分は、エピソードではなく、理論であることがわかります。
パール氏の研究のスタートは、AIの研究者でした。
AIの研究では、コンピュータにどのように考えさせるかというアルゴリズムが、問題になります。パール氏が提案したベイジアンネットワークは、現在でも、有効な手法です。
現在のAIでは、ニューラルネットワークとベイジアンネットワークが、2つのコアなアルゴリズムです。
しかし、ベイジアンネットワークでは、因果推論ができないことがわかります。
さて、因果推論のアルゴリズムをどのように推定すべきでしょうか。
ニューラルネットワークは、脳の神経の模倣です。
ベイジアンネットワークは、ランメルハートの論文にヒントをえた脳の神経の模倣です。
脳の神経の模倣では、限界があります。
パール氏は、1991年に因果ダイアグラムを扱うようになった時点が転換点であったといいます。
数学の理解に図形が必要になるのは、幾何学の視点です。
数式変形の手続きで記述できる代数学に図形が必要であるかが議論が分かれます。
物理学者では、ファインマンが図形思考であったことが知られています。
また、哲学者のなかでは、パース氏が、図形を多用しています。
パール氏の主張は、因果推論の科学は、幾何学の一部である因果ダイアグラムを含んでいます。因果ダイアグラムの代用になる方法は見つかっていないといいます。
パール氏は、因果推論のアルゴリズムの推測で、思考実験(哲学の方法)を使っています。
因果ダイアグラムの使い方は例示によってしか説明できません。
図を書かないで、文章だけで、因果ダイアグラムを説明することは、不可能です。
この点が理解できないと、因果ダイアグラムの説明は、「さまざまなエピソード」に見えてしまいます。
ウィトゲンシュタインは将来、数学の哲学しか残らないだろうといいました。
筆者には、パール氏の「因果推論の科学」は、数学(矛盾のない言語を定義して、それを使って推論する)の哲学のように見えます。
「必要因果」と「十分因果」について、Google検索しましたが、日本語では、目ぼしいものは、何もヒットしませんでした。
「因果」について、過去の日本の哲学者の考察がヒットしましたが、数学的な記述が不十分で、問題外に見えました。
ウィトゲンシュタインが予言したように、数学を使って、哲学をすることができれば、正確さの点で、それに優る方法はありません。
パール氏は、図形(因果代グラム)と数式言語(インスタンス、オブジェクト、関数)をつかって、哲学をすすめます。
「因果推論の科学」は、コンピュータサイエンスの一部と見ることもできますが、その応用範囲をみれば、コンピュータサイエンスには止まりません。
これが、パール氏が、「因果革命」と呼ぶ理由です。
そうすると、「因果推論の科学」は、哲学が科学になった(数学を使う哲学になった)と解釈することが可能です。
こう考えると、従来の数学を使わない哲学は、終わっているように感じられます。