注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。
(56)科学の再構築
1)科学の方法
科学の方法については、議論が続いています。
英語版のウィキペディアの、「History of scientific method」は、科学の方法の歴史には、「帰納的実験方法の出現」と「演繹法と帰納法の統合」の2段階があるといいます。
「演繹法と帰納法の統合」の説明の末尾は、次のように書かれています。
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これらの議論は、「科学的方法」を構成するものに関して普遍的な合意がないことを明らかに示している。それにもかかわらず、今日の科学的探究の基礎となっている特定の中核原則(core principles) が残っている。
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これは、科学の方法とは一群のツールから構成されていて、より性能のよいツールが出現すれば、ツールが入れ替えられるためであると思います。
「科学の方法」では、科学のプロセスを記述する方法が含まれますが、そのプロセスに含まれるツールは入れ替わりますので、固定的な記述は困難になります。
一方、複数のツールを含むように、曖昧な記述をすれば、例外を含むことになります。
これは、n時点空間の点のデータを無理に1次元に縮約する問題に似ています。
さて、あるツールを科学の方法に採用すべきか、否かという判定条件は、経験的なものです。ここで経験的とは、予測と、実測のデータを指します。あるツールの予測精度が、それまでのツールの予測精度を上回る場合、そのツールを採択しない理由はありません。
科学のツールは、科学の要素分解主義にも支えられています。
科学は、基本的には、要素の間には、独立性があると仮定します。
この要請は、モデルを単純化するための要請であると思います。
科学の進歩は、当初は、実験というツールによってもたらされました。
実験というツールは、発明された科学のツールの中で、非常に強力でした。
その理由は、実験では、反事実を含む仮説が検証できるからです。
また、実験では、パラメータを1つだけ変えます。
一方、実験が出来ない場合には、実験では容易であったこの2つの前提が成立しません。
反事実のための介入は、実験室外では困難です。
実験室外では、パラメータを1つだけ変えることは困難で、他のパラメータも連動して変化して交絡因子が生じます。
このような制約条件があるため、実生活では、科学の方法が使えない分野があります。
この場合には、パースの説明では、固執の方法(前例主義)、権威の方法、形而上学などが使われることになります。
科学とは、科学者が観察を体系的に集め、それに基づいて信頼できる一般化をするという「ベーコンの帰納主義」は、偽装された固執の方法(前例主義)で、科学の方法ではありません。
「ベーコンの帰納主義」では、反事実も、交絡因子もあつかうことが出来ません。
パール先生は、「哲学の問題は、科学の進歩とともに消えていった」(p.550)といいます。
これは、哲学の問題が、科学によって、解かれたか、科学によって、解くに値しないことがわかったことを意味します。
パースの分類でいえば、「固執の方法(前例主義)、権威の方法、形而上学」で行なわれたブリーフの固定化法は、科学の方法に入れ替わったことを意味します。
パール先生は、因果革命が起こっているといいます。
「因果推論の科学」で検討されている因果革命は、統計学から因果推論の科学へのレジームシフトを論じています。
このレジームシフトは、科学の方法の中の出来事です。
今まで、「固執の方法(前例主義)、権威の方法、形而上学(ステップ1)」で行なわれたブリーフの固定化法は、統計学を中心とした科学の方法(ステップ2)に入れ替りました。
この変化は、人文科学と社会科学が、統計学(数学)を吸収することで実現されています。
これから、「因果推論の科学」によって、統計学を中心とした科学の方法(ステップ2)で行なわれたブリーフの固定化法は、因果推論の科学の方法(ステップ3)に入れ替ります。
日本の統計学(数学)がない人文科学と社会科学には、「ステップ2」がありません。
つまり、これから、「固執の方法(前例主義)、権威の方法、形而上学(ステップ1)」で行なわれたブリーフの固定化法は、因果推論の科学の方法(ステップ3)に入れ替ることになりますが、これは非常に困難です。
「固執の方法(前例主義)、権威の方法、形而上学(ステップ1)」で行なわれたブリーフの固定化法は、統計学を中心とした科学の方法(ステップ2)に入れ替るときに、ガリレオ裁判が生じました。
ガリレオ裁判は、ステップ1の教会の権威の方法が、ステップ2の科学の方法に置き換わることを拒否した事例です。
この場合の科学の方法は、天文学であり、置き換わる部分は、権威の一部でした。
固執の方法(前例主義)と権威の方法は、既得利権を構成しています。
科学の方法が因果推論の科学である場合には、固執の方法(前例主義)や権威の方法と、因果推論の科学の方法の間の競合は熾烈なものになります。
物理学が裁判官や弁護士の仕事を奪うことはありません。
しかし、因果推論ができる強いAIの能力は、裁判官や弁護士の能力を、「理論的に」上回ります。これは、パール先生の言い方では、数学の証明問題になります。
2000年代に、著作権を根拠に、政府は検索サイトを閉鎖に追い込みました。
検索サイトの全ての情報は、事前に著作権問題をクリアする必要があると主張しました。
これは科学の方法から見れば、言いがかりです。全ての問題を事前にクリアできるフィルタ―を設計することは不可能問題ですから、ビジネスはできません。エンジニアリングの世界では、エラーを許容しないシステムは設計できません。絶対に墜落しない飛行機は設計できません。墜落するのが絶対にいやならば、飛行機に乘らないことです。
現在、政府は、生成AIについて、おなじような言いがかりをつけています。
科学の方法のメンタルモデルでみれば、2000年代に、政府は、どうして情報産業の足を引っ張るような検索規制をかけたのだろうと疑問になります。
しかし、権威の方法のメンタルモデルでみれば、検索サイト規制の目的は、権威の方法を維持することにあります。産業育成は、このメンタルモデルには含まれていません。
政治献金や天下り先を確保するといった権威の維持にたいする脅威を排除すべきであるというメンタルモデルが、政策決定の要因です。
検索規制の結果、日本の情報産業の技術進歩はなくなりました。現在では、GAFAMに競争できる技術と人材をもっている日本の情報関連企業はありません。
この責任の半分は、政府にありますが、残りの半分は、情報企業の経営者にあります。
国際市場を想定した経営をしていれば、もっと、政府に強く働きかけるべきでした。
200年代の政策の間違いが、巨額のデジタル赤字の原因です。
にもかかわらず、政府は、生成AIに、言いがかりをつけています。
これは、政治献金と天下り先の確保が、経済成長に優先するからです。
この言いがかりの効果は、10年後に確実に現われます。
2024年の日本の情報産業の能力(技術と人材)は、アメリカ、中国には勝てません。
アメリカ、中国の背中を、アイスランド、イスラエル、インド等が追いかけています。
国際通貨基金(IMF)の2025年の推計値によると、インドのGDPは同年に4兆3398億ドル(約670兆円)となり、4兆3103億ドルの日本を抜いて世界4位に浮上します。
この予測は、トレンドモデルであり、余り意味はありません。因果モデルで、考えて、今後のデジタル赤字の拡大を考えれば、10年後には、インドのGDPが日本の数倍になっていても不思議ではありません。
IMDの2023年11月末公開の「世界デジタル競争力ランキング」では、アジア・太平洋地域の順位は、シンガポール、韓国、台湾、香港、オーストラリア、中国、ニュージーランド、日本になっています。
日本より、「世界デジタル競争力ランキング」の高い国は、今後、一人あたりGDPが日本を超えることは確実です。
2)推論とプリーフの固定化法
ブリーフを固定化するには、どのブリーフが良いかという推論が必要になります。
これは、複数の因果モデルを作成して、感度分析をすればできます。
相関は、因果ではないので、回帰モデルは因果モデルではありません。
それでも、因果ダイアグラムが単純で、交絡因子の影響が無視できれば、回帰モデルで、因果モデルに近い数字が計算できることもあります。
これは、正確には、科学の方法ではなく、疑似科学の方法になりますが、「ステップ1」の方法よりは、まともなブリーフになる確率は高いと思われます。
ただし、原因と結果を取り違えてはいけません。
不況の時には、金融緩和が経済成長の原因になるかもしれませんが、インフレは、経済成長の原因ではありません。金融緩和しても、経済成長しなくなった場合には。「金融緩和=>経済成長」という因果構造がなくなったと解釈できます。つまり、他の因果モデルを検討する必要があります。
七夕の短冊のように、「雨が降ってください」、「神様、雨を降らせて下さい」と紙に書いて、祈る儀式が、雨ごいです。
雨ごいが問題である理由は、「雨ごい(原因)=>雨が降る(結果)」という雨ごいの因果モデルがなりたたたないためです。
「金融緩和=>経済成長」という因果構造がなくなったあとでも、金融緩和を続けるメンタルモデルは、雨ごいのメンタルモデルと共通性があります。
過去のデータからすれば、雨ごいの因果モデルがなりたって、雨が降り始めたこともたまにはあると思いますが、大抵の場合には、雨は降らない、つまり、雨ごいの因果モデルがなりたたない場合になります。
雨ごいをする人は、雨ごいの因果モデルが成り立つ可能性が低いことは理解しています。
雨ごいをする人は、雨ごいの代替性のある雨を降らせる因果モデルを持っていません。
これが、歴史的に、雨ごいが継続してきた理由です。
現在でも、人工降雨を降らせることはできませんが、節水の技術はあります。水資源の最大の利用者は農業ですが、節水技術によっては、需要量を10分の1近くまで減らすことが可能です。
「金融緩和=>経済成長」という因果構造がなくなった場合でも、推論ができれば、他の方法を検討することが可能です。
この推論は、演繹法になるので、メンタルモデルがないと推論ができません。
演繹(deduce)には、推論という意味があります。英語では、推論は、第1に演繹を指します。
例えば、公務員の年功型雇用は、新規の採用希望者が激減して、破綻しています。
あるいは、企業でも、新規採用で、必要な人材を確保できません。
こうした場合、どうずれば良いかの推論が必要になります。
ジョブ型雇用の企業であれば、人材の確保問題には、2つの解法があります。
第1は、給与をあげることです。これは、売り上げ(入力)を増やす方法で、雨ごいに似ています。
第2は、必要な人材数(出力)を減らすため、DXを進めることです。これは、節水に似ています。
ジョブ型雇用では、労働市場のメンタルモデルがありますから、市場原理が機能するというメンタルモデルを使えば、何をすれば、問題解決ができるかが、分かります。
筆者は、「固執の方法(前例主義)、権威の方法、形而上学(ステップ1)」のメンタルモデルをもっていません。
なので、年功型雇用の企業の人事担当者の推論が理解できません。
現在、聞こえてくる対策は、新卒の給与をあげる、中途採用を増やす、退職後の再雇用を増やすといった対策です。
しかし、筆者には、これらの対策がどうして効果があると面立つモデルで、期待できるかが理解できていません。
労働市場のメンタルモデル(ジョブ型雇用のメンタルモデル)では、他の企業よりも、高い給与を提示するためには、他の企業よりも高い生産性が必要になります。つまり、DXが遅れれば、給与をあげられないので、優秀な人材が確保できなくなります。人材は、人数ではなく、生産性を考える必要があります。特に、新製品開発には、高度人材が不可欠です。給与の分布は、生産性の分布を反映する必要があります。さもないと、高度人材に、適切な給与をオファーできなくなります。
このメンタルモデルで、年功型雇用の場合を考えると、メンタルモデルが破綻して、思考停止になります。
文系の専門には、「ベーコンの帰納主義」を愛用している人が多くいます。
少子化問題であれば、限界集落の専門家がいます。こうした専門家は、現状の問題点には詳しいです。マスコミが、こうした「ベーコンの帰納主義」の専門家にインタビューすることがあります。
通常、その解答は、論理が破綻しています。提案する解決策は、限界集落のデータとは、関係がありません。ほぼ、因果モデルでは意味のない思いつきになっています。
これは、「ベーコンの帰納主義」の専門家は、解決策を考える推論に必要なメンタルモデルをもっていないことを示しています。
因果推論ができ、反事実を取り扱える強いAIが実用化した場合、「ベーコンの帰納主義」の専門家は、生きのこらないと思われます。
3)大学の不可侵主義
大学では、各学科は、平等である(同じ学問的価値がある)というメンタルモデルを共有しています。これは、民主主義ではいえば、結果の平等なので、破綻しています。大学の教員は、結果の平等の論理が破綻していることは知っていますが、このメンタルモデルを認めないと1人、1人1票の学部長や学長選が成り立たなくなります。不可侵主義は、必要悪であると考えている人が多いと思われます。
ちなみに、選挙権の範囲は、大学により様々で、教授だけの場合や、助手まで含む場合もあります。
野口悠紀雄氏は、東京大学では、GDPシェアの小さな農学部の定員が多すぎると主張しています。しかし、野口悠紀雄氏は、GDPシェアは無視して、人文科学は、必要であるといっています。
<< 引用文献
東大が19世紀の大学では、日本でIT革命が起こるはずはない 2022/02/13 現代ビジネス 野口悠紀雄
https://gendai.media/articles/-/92280
>>
この問題は、どの学部の定員が多いか、少ないかという問題ではなく、結果の平等を根拠にした不可侵主義が行き詰っていることが原因の問題です。
日本の文系は科学ではないので、科学のメンタルモデルがないので、メンタルモデルの共有ができず議論はできません。
科学の方法を取り入れている人文科学と社会科学の現状を英語版のウィキペディアは次のように書いています。
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Humanities(人文科学)
教育と雇用
何十年もの間、人文科学教育は卒業生の就職準備に不十分であるという認識が広まってきました。一般的に、人文科学教育を受けた卒業生は不完全雇用に陥り、収入も低すぎるため、人文科学教育に投資する価値がないと考えられています。
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Social science(社会科学)
社会科学の優先順位が低い
社会科学は自然科学よりも資金が少ない。気候関連研究の全資金のうち、気候変動緩和の社会科学に費やされているのはわずか0.12%と推定されている。気候変動の自然科学研究にははるかに多くの資金が費やされており、気候変動の影響と適応の研究にもかなりの金額が費やされている。これは資源の誤った配分であると主張されている。なぜなら、現時点で最も緊急の課題は、気候変動を緩和するために人間の行動をどのように変えるかを考えることであるのに対し、気候変動の自然科学はすでに十分に確立されており、適応に取り組むには何十年、何世紀もかかるからである。
>
ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)氏の言語学研究は、半分は言語遺伝子の研究になっています。このような生物学などのボーダーラインにある研究を除けば、人文科学には、科学的な価値はありません。
本居宣長の「古事記伝」は、原本の「古事記」の内容が科学的に間違っているので、同様の間違いを抱えています。
さて、社会科学が、「現時点で最も緊急の課題は、気候変動を緩和するために人間の行動をどのように変えるか」という問いに答えられるという説明は正しいでしょうか。
ここで、筆者は、科学のメンタルモデルを使って、思考実験によって、反例を提示することができます。
社会科学に、自然科学以上に金銭的価値があるという主張は、大学の不可侵主義と同様に、社会科学と自然科学は独立していて独自の価値あるという前提条件に依存しています。
しかし、その主張には、根拠がありません。
4)エコシステム・エコロジー
Ecosystem ecology(生態系生態学)という科学があります。
英語版のウィキペディアには次のように書いてあります。
<
生態系生態学は、生態系の生きている(生物的)要素と生きていない(非生物的)要素、および生態系の枠組み内でのそれらの相互作用に関する総合的な研究です。
>
ICUNは、生態系生態学を推進していて、生態系レッドリストを作っています。
<< 引用文献
THE RED LIST OF ECOSYSTEMS
>>
ICUNは2024年5月24日に、生態系レッドリストについて、次のように書いています。
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IUCN 生態系レッドリスト 10 周年を祝う: ビジョンから世界への影響へ
2024年5月21日
10年前の2014年5月21日、国際自然保護連合(IUCN)はスイスのグランで開かれた第83回理事会で、生態系のレッドリストを世界標準として正式に採用するという歴史的な決定を下しました。
この取り組みは、生態系リスクを評価するための世界標準の開発に関する最初の議論から 2007 年に始まりました。2013 年までに、100 名を超える専門家による広範な協力により、「IUCN 生態系レッド リストの科学的根拠」が出版され、生態系崩壊のリスクを評価するためのカテゴリと基準が固められ、翌年 IUCN によって採用されました。
過去 10 年間、世界規模の取り組みにより、120 か国以上で 4,200 を超える生態系の評価が行われ、60 か国以上で包括的な陸上評価が行われました。これらの取り組みは単なる統計にとどまらず、有意義な変化をもたらします。これらの評価は、立法措置、保護地域の効果的な管理、情報に基づいた意思決定、および国民の意識の向上を促進しました。
2022年12月、レッドリスト生態系は、国連昆明・モントリオール地球規模生物多様性枠組み(GBF)の主要指標として、特に生態系、種、遺伝的多様性を含む生物多様性の維持と回復に焦点を当てた目標Aに選ばれ、さらなる検証を受けました。この認識は、分布、完全性、崩壊のリスクを含む生態系データを体系的に収集、分析、統合する上でのレッドリスト生態系枠組みの重要性を強調しています。さまざまな景観にわたって影響力を広げ、研究者と政策立案者の協力を強化しました。
創設から 10 年が経過した現在も、私たちのダイナミックな世界をナビゲートするための重要な洞察を提供してくれる重要なツールであり続けています。
Written by: Emy Miyazawa
>
<< 引用文献
Celebrating a Decade of the IUCN Red List of Ecosystems: From Vision to Global Impact
Scientific Foundations for an IUCN Red List of Ecosystems
>>
生態系生態学の定義は、「生態系の生きている(生物的)要素と生きていない(非生物的)要素、および生態系の枠組み内でのそれらの相互作用に関する総合的な研究」でした。
この「生態系の生きている(生物的)要素」には、人間も含まれます。
つまり、社会科学は、生態系生態学の一部に含まれます。この表現は、過激ですが、社会科学と自然科学は独立していて独自の価値あるという前提条件が成り立たないという主張であれば、至極当然な主張です。
生態系生態学の中で、人間の活動の部分にどこまで焦点をあてるかは、立場によって異なります。もっとも過激な主張では、人間のエコシステムの問題が、人間以外のエコシステムに影響を与えているプロセスが環境問題であるというメンタルモデルを持っています。
生態系生態学は、「因果推論の科学」では、解決できそうにない問題を多数かかえています。生態系生態学の問題の所在とゆるい関連のメンタルモデルは理解できますが、解決策の実装方法については、restoration以外では、意見が一致していないように感じます。
それでも、ICUNは、「IUCN 生態系レッド リストの科学的根拠」を出版して、メンタルモデルの共有という理解の王道を歩いています。
さて、2015年に、ICUNが、「生態系のレッドリストを世界標準として正式に採用するという歴史的な決定」をするまでは、種の保存の生態学が使われていました。
これが環境省のレッドデータブックです。このレッドデータブックに関連した種の保存の脅威の排除のために外来種の排除を促す法律ができています。
パール先生は、ロビンズとクリーブランドの論文について、「被験者と(運命、原因、予防、免疫)にわかるステッカーは存在しない」(p.241)と思考実験によって反例を提示しています。
同様の思考実験をすれば、動物は、パスポートを持っていないので、外来種の排除を促す法律はナンセンスです。外来種という基準では、ヒグマを本州につれて来ても良くなります。
数の少ない特定の種に注目する政策には、合理性がありません。過去に存在した99%の種は、人間の介入がなくとも、絶滅しています。人間は、絶滅すべき種と保全すべき手を区別する合理的な判断基準を持っていません、
ともかく、2024年現在、環境省は、エコシステムの保全ではなく、種の保全政策を継続しています。
さて、環境省の研究所の研究員の人が、統計的因果推論入門を書いています。
モデルは、ルービンのモデルですが、問題は、解析の対象です。
なんと、外来種がテーマになっています。著者は、「現実の世界では必ずしも、データ分析者がその対象を選り好みできる場合ばかりではありません」と書いています。
しかし、これは、種の保全の生態学の主張です。エコシステムエコロジーでは、人間のエコシステムにおいて、「データ分析者がその対象を選り好みできず」、間違った対象を分析せざるを得ない場合には、人間のエコシステムに問題があると判断します。人間のエコシステムに問題があれば、それは、野生生物のココシステムに問題を生じます。
簡単に言えば、研究者が、適切な研究対象を選択できない状況と、野生生物のエコシステムが保全できない状況の間には関連、あるいは因果関係があります。
筆者は、特定種の保全政策は、生態学におけるルイセンコ学説であると考えています。
ルービンのモデルは、メンタルモデルの共有を前提としていません。
これは、一見すると簡便ですが、メンタルモデルからみれば、間違った対象を分析するリスクを抱えています。
補足:
「IUCN 生態系レッドリスト 10 周年を祝う: ビジョンから世界への影響へ 」の執筆者は、Emy Miyazawa氏です。「Miyazawa」は、日本人の名前です。
Emy Miyazawa氏について、検索した限りでは、Emy Miyazawa氏は、Universidad Simón Bolívaの研究者で、専門は、Marine biologymarine ecologyecologyのようです。