「因果推論の科学」をめぐって(42)

注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。

 

(42)理解の問題

 

1)AIの理解

 

パール先生は、次のようにいいます。

 

AIの世界では、機械(a mechanical robot)に教えることができなければ、そのトピックを本当に理解している(really understand a topic)とは言えない

>(p.26)

 

この機械に教えることは次の2つに分解できます。

 

第1に、プログラムのコードを書くことが必要です。

 

例えば、「正義」や「平和」変数をつかって、意味のあるプログラムコードを書くことはできません。

 

これは、オブジェクト(「正義A」や「平和B」)に代入するインスタンスがないからです。

 

パール先生は、「科学的発言には、そのための言語(新しい言語)が必要である」(p.26)といいます。

 

パール先生は、「記号言語は、知りたいこと、つまり問いを表現するための言語」(p.23)

であるといいます。

 

記号言語が、新しい言語に含まれることは確かですが、正確な理解は難しいです。

 

「新しい言語」>「記号言語」

 

ここで、>は包含記号のUの代りに使っています。

 

ここでは、「記号言語は、知りたいこと、つまり問いを表現するための言語」(p.23)という表現は、例示であると考えます。

 

つまり、「つまり問いを表現する」以外の記号言語もあると考えておきます。

 

次の理解です。

 

「新しい言語」=「記号言語」(数学記号)

 

数学記号になれば、原則、コードに展開できます。

 

「新しい言語」=「記号言語」(数学記号)=プログラムコード

 

第2に、プログラムを実行するためのデータが必要です。

 

このデータに対する要請は。ビッグデータになって、大きくなりました。

 

まとめると、理解とは、プログラムコードが書けることと、プログラムを実行できるデータがあることになります。

 

プラグマティズムは、形而上学は役に立たないと主張します。

 

形而上学」と「役に立つ」を定義することは困難です。

 

「プログラムコードが書け、プログラムを実行できるデータがある」場合には、その手法は形而上学ではないと思われます。

 

つまり、AIの理解の定義は、不毛な論争を避ける上で有効です。

 

このAIの理解の定義は、AIの理解の定義は、理解している場合と、理解できてない場合を区別できる方法(理解の検証方法)が提示できている点が重要です。

 

例えば、期末試験や入学試験は、本当に理解を試しているのでしょうか。

 

生成AIは試験で高いスコアを得られることは、現在の試験は、理解を試していないことをしめしています。

 

官僚は、試験で高いスコアを得て、就職します。これは、生成AIのように、パターンマッチングの能力が高いことを示しています。

 

しかし、AIの理解の定義で判定すれば、官僚はわかったふり(りかいできたふり)をしているだけで、実際には、理解できてない可能性も高いです。

 

AIの理解の定義である「プログラムコードが書け、プログラムを実行できるデータがある」条件を満たしているとは思えません。

 

AIの理解の定義である「プログラムコードが書け、プログラムを実行できるデータがある」条件は、強い理解の定義(判定条件)です。

 

パターンマッチングをさけられれば、不完全であっても、パターンマッチングよりましな弱い理解の定義(判定条件)を考えることができます。

 

数学では、数式の形をパターンマッチングで覚えていても理解したとは言えません。

 

これに対して、俗に暗記科目と呼ばれる教科では、記憶できればよいと考えられています。

 

しかし、コンピュータのメモリーがこれだけ安くなり、スマホでいつでも検索できる時代に、暗記を理解の基準にとることは、正気ではありません。

 

コンピュータ言語のコーディングでは、暗記は2階建てになっています。

 

1階部分は、複数の言語に共通する部分や、基本概念です。

 

この部分は、しっかり理解し、それなりに記憶が出来ている必要があります。

 

一方、言語や、言語のバージョンによって変化する部分があります。

 

この部分は、正確に記憶しても無駄です。

 

よく使われる言語は、ライブラリが充実していて、ライブラリの数が数千を超えることもあります。マニュアルは数千ぺージを越えます。

 

ライブラリは、バージョンアップして、関数形も変わります。なので、ライブラリは使用時に最新のバージョンをチェックして使うしか方法がありません。その知識は、2年くらいでバージョンアップが必要になるので、暗記は、ほどほどに止める必要があります。

 

話を戻します。弱い理解の定義(判定条件)は、数学であれば、数値例です。因果モデルであれば、サンプル事例になります。

 

これはメンタルモデルの理解とつながっています。

 

たとえば、少子化対策であれば、収入が上がる、授業料がただになる、出産助成金がでる、育児休暇を取りやすくなどの対策が提案されています。これらの提案について、実際に数字を当てはめたサンプルを作成して、複数の対策を比較して、優先政策に採用された政策が、なぜ、他の政策より優れているかを説明できれば、少子化対策について理解が出来ていると判断できます。これは、AIの理解の基準よりは、弱い理解の判定基準ですが、パターンマッチングの記憶量よりは、遥かにまともな理解の確認方法です。

 

2)Understanding

 

さて、パール先生は、AIの理解の定義をしめしました。

 

いったい、AI以外では、理解はどのように扱われているのでしょうか。

 

英語版のウィキペディアの理解(Understanding)には次のように書かれています。

Understanding

 

理解とは、人、状況、メッセージなどの抽象的または物理的な対象に関連する認知プロセスであり、概念を使用してその対象をモデル化することができます。理解とは、認識者と理解の対象との関係です。理解とは、知識の対象に関する、知的な行動をサポートするのに十分な能力と性質を意味します。

 

理解は、常にではありませんが、多くの場合、概念の学習に関連しており、時にはそれらの概念に関連する理論にも関連しています。ただし、人は、自分の文化でその対象、動物、またはシステムに関連する概念や理論に必ずしも精通していなくても、対象、動物、またはシステムの行動を予測する能力が優れている可能性があり、したがって、ある意味ではそれを理解している可能性があります。彼らは独自の明確な概念や理論を開発している可能性があり、それは自分の文化で認められている標準的な概念や理論と同等か、優れているか劣っている可能性があります。したがって、理解は推論を行う能力と相関しています。

 

理解と知識はどちらも統一された定義のない単語です。

 

この説明であれば、認知科学とリンクできますし、工夫すれば、AIのプログラムへの道筋をつけることもできます。AIが実現するわけではありませんが、インタフェースの設計の参考にはなります。妥当な説明です。

 

日本語のウィキペディアの理解は、次のように書かれています。

理解(りかい、英語:Understanding)とは、

    物事の道理を悟り、知ること。また意味をのみこむこと。

    (自分以外の人の)気持ちや立場をわかること。

 

この説明は、「理解とは(主語)、意味をのみ込むこと(述部)」と「理解とは(主語)、わかること(述部)」になっています。

 

「主語=述部」なので、文章は同義語反復(トートロジー)です。

 

まったく説明になっていませんし、この説明では、理解できてない場合が判別できません。

 

英語版のウィキペディアと日本語版のウィキペディアの内容には、大学生と小学生くらいのレベルの差があります。

 

仮に、英語版のウィキペディアのレベルで、理解のメンタルモデルが出来ていれば、理解とは、「認識者と理解の対象との関係」になります。「その対象を概念を使用してモデル化」します。つまり、「認識者と概念モデルの関係」になります。「概念モデル」とは「メンタルモデル」のことですから、パール先生は、メンタルモデルの共有ができないとコミュニケーションが成り立たないと主張していますが、これは、標準的なUnderstandingを踏襲しています。

 

さて、文部科学省は、学習の理解をどのように概念モデル化しているのでしょうか。

 

AIの定義に変わる学習効果(理解)の判定条件を持っているのでしょうか。

 

文部科学省には、「理解」の概念モデルはありません。

 

中央教育審議会答申には、「何を理解しているか、何ができるか」が、書かれていますが、この内容は、主語がなく、文章になっていません。入試の論文試験に書けば、確実に落第します。

 

このヒエログリフのような理解不能な、ジャーゴンを教育関係者は、解読しています。

筆者は、解読作業には参加したくないので、コメントは控えます。

 

中央教育審議会答申(平成 28 年 12 月)

 

①何を理解しているか、何ができるか

○各教科等において習得する知識や技能であるが、個別の事実的な知識のみを指すものではなく、それらが相互に関連付けられ、さらに社会の中で生きて働く知識となるものを含むものである。

○基礎的・基本的な知識を着実に習得しながら、既存の知識と関連付けたり組み合わせたりしていくことにより、学習内容(特に主要な概念に関するもの)の深い理解と、個別の知識の定着を図るとともに、社会における様々な場面で活用できる概念としていくことが重要となる。

○技能についても同様に、一定の手順や段階を追って身に付く個別の技能のみならず、獲得した個別の技能が自分の経験や他の技能と関連付けられ、変化する状況や課題に応じて主体的に活用できる技能として習熟・熟達していくということが重要である。

<< 引用文献

学習指導要領「生きる力」

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syokaisetsu/index.htm

>>



3)パール先生の講義

 

「因果推論の科学」を理解するためには、メンタルモデルを理解する必要があります。

メンタルモデルの共有のためには、良い教科書が必要になります。

 

パール先生は、「入門統計的因果推論」を出版しています。この本は、パール先生の大学院の講義ノートを編集したものです。「入門統計的因果推論」は、統計学の知識を前提としています。「入門統計的因果推論」には、推奨する統計学の教科書がリストされています。

つまり、統計学のメンタルモデルが共有できる状態から、「入門統計的因果推論」の講義はスタートします。ここには、統計学の教科書が理解できて、統計学のメンタルモデルが共有できない学生は、「入門統計的因果推論」の講義には、参加できないという暗黙の了解があります。

 

統計学の教科書が理解できて、統計学のメンタルモデルの共有ができているけれど、「入門統計的因果推論」の講義が理解できない学生は、落ちこぼれ学生になります。

 

統計学のメンタルモデルが共有できず、「入門統計的因果推論」の講義に、参加できない学生は、落ちこぼれではなく、参加資格がない学生になります。

 

メンタルモデルの共有は、コミュニケーションの前提です。

 

落ちこぼれ学生と参加資格のない学生は、区別する必要があります。

 

この区別をしないと、コミュニケーションが崩壊します。

 

4)アクティブ・ラーニング

 

さて、理解(:Understanding)は、余りに、基本的な用語でしたので、もう少し、理解に関係するより個別の用語を調べてみます。

 

ここでは、アクティブ・ラーニングを取り上げます。

 

4-1)英語版ウィキペディア

 

英語版ウィキペディアの解説の一部を運用します。

アクティブラーニングとは、「学生が学習プロセスに能動的または経験的に関与し、学生の関与に応じてアクティブラーニングのレベルが異なる学習方法」です。 Bonwell & Eison (1991)は、「学生は受動的に聞くこと以外に何かをしているときに [アクティブラーニングに] 参加する」と述べています。Hanson と Moser (2003) によると、教室でアクティブ教授法を使用すると、学生の学業成績が向上する可能性があります。Scheyvens、Griffin、Jocoy、Liu、Bradford (2008) はさらに、「小グループ作業、ロールプレイとシミュレーション、データ収集と分析を含む学習戦略を活用することで、アクティブラーニングは学生の興味と意欲を高め、学生の批判的思考、問題解決、および社会的スキルを養うと言われています」と述べています。高等教育研究協会のレポートでは、著者がアクティブラーニングを促進するためのさまざまな方法論について説明しています。彼らは、学生が学習するためには聞くだけでは不十分であることを示す文献を引用しています。生徒は、読み、書き、議論し、問題解決に取り組む必要があります。このプロセスは、知識、スキル、態度 (KSA) と呼ばれる 3 つの学習領域に関連しています。この学習行動の分類は、「学習プロセスの目標」と考えることができます。特に、生徒は分析、統合、評価などの高次の思考タスクに取り組む必要があります。

 

アクティブラーニングの性質

 

アクティブラーニングという用語にはさまざまな代替語があり、具体的な戦略としては、遊びを通じた学習、テクノロジーベースの学習、アクティビィティベースの学習、グループワーク、プロジェクト方式などがあります。これらの共通要素は、アクティブラーニングの重要な性質と特徴です。アクティブラーニングは受動的な学習の反対で、教師中心ではなく学習者中心であり、ただ聞く以上のことが求められます。アクティブラーニングでは、生徒一人ひとりの積極的な参加が不可欠な側面です。生徒は物事を行うと同時に、行われた作業とその背後にある目的について考える必要があります。(太字は筆者)そうすることで、高次の思考能力を高めることができます。

 

多くの研究は、戦略としてのアクティブラーニングが達成レベルを向上させることを証明しており、他のいくつかの研究は、アクティブラーニング戦略を通じてコン​​テンツの習得が可能になると述べています。しかし、一部の学生や教師は、新しい学習技術に適応するのが難しいと感じています。



アクティブラーニングの科学

能動学習は、理解力と記憶力の指導に効果的に活用できます。能動学習が効率的な理由は、学習中の脳の働きの根本的な特徴を利用しているからです。これらの特徴は、何千もの実証研究 (例: Smith & Kosslyn、2011) によって文書化されており、一連の原則として体系化されています。これらの原則はそれぞれ、さまざまな能動学習演習で活用できます。また、学習を促進する活動を設計するためのフレームワークも提供します。体系的に使用すると、これらの原則により、学生は「効果的に学習できる (時には学習しようとしなくても)」とStephen Kosslyn (2017) は述べています。 

 

 Bonwell & Eison は、生徒が聞いてる時以外は、アクティブラーニングに分類できるといいます。この定義は明快です。

 

「生徒は物事を行うと同時に、行われた作業とその背後にある目的について考える必要があります」(太字は筆者)は、「因果推論の科学」の「Why」につながります。

 

アクティブラーニングが効果的である理由には、科学的根拠があります。

能動学習が効率的な理由は、学習中の脳の働きの根本的な特徴を利用しているからです。これらの特徴は、何千もの実証研究 (例: Smith & Kosslyn、2011) によって文書化されており、一連の原則として体系化されています。

 

一連の原則の一部は、英語版ウィキペディアに、書かれていますが、ここでは引用を省力します。

 

英語版ウィキペディアは、アクティブラーニングのメンタルモデルを共有するために、次の文献を読むことを勧めています。

 

Works cited

 

    Bens, I. (2005). Understanding participation. In Facilitating with ease! Core skills for facilitators, team leaders and members, managers, consultants, and trainers (2nd ed., pp. 69–77). San Francisco: Jossey Bass.

    Bonwell, C.; Eison, J. (1991). Active Learning: Creating Excitement in the Classroom AEHE-ERIC Higher Education Report No. 1. Washington, D.C.: Jossey-Bass. ISBN 978-1-878380-08-1.

    Brookfield, S. D. (2005). Discussion as the way of teaching: Tools and techniques for democratic classrooms (2nd ed.). San Francisco: Jossey-Bass.

    Chickering, Arthur W.; Zelda F. Gamson (March 1987). "Seven Principles for Good Practice". AAHE Bulletin. 39 (7): 3–7. Archived from the original on 2013-01-28. Retrieved 2013-02-17.

    Cranton, P. (2012). Planning instruction for adult learners (3rd ed.). Toronto: Wall & Emerson.

    McKinney, K. (2010). "Active Learning. Illinois State University. Center for Teaching, Learning & Technology". Center for Teaching, Learning & Technology. Archived from the original on 2011-09-11.

    Radhakrishna, Rama; Ewing, John; Chikthimmah, Naveen (2012). "Teaching Tips/Notes". NACTA Journal. 56 (3): 84–85. JSTOR nactajournal.56.3.82.

    Hanson, S., & Moser, S. (2003). Reflections on a discipline-wide project: Developing active learning modules on the human dimensions of global change. Journal of Geography in Higher Education, 27(1), 17-38.

 

4-2)日本語版ウィキペディア

 

日本語版ウィキペディアの記述の一部を紹介します。

アクティブ・ラーニング

 

アクティブ・ラーニング(英語: Active learning、主体的、対話的で深い学習)は、学修者主体の学習手法の一つであり、学修者が能動的(アクティブ)に学修(ラーニング)に参加する学習法の総称である。教育行政用語としてのアクティブ・ラーニングと、教育学術用語としてのアクティブラーニングは重なる部分も大きいが、異なる部分もあるため注意を要する。本稿は主に前者を念頭に解説する。 

 

概要

アクティブ・ラーニングは学修者が能動的に学習に取り組む学習法の総称である。これにより学習内容を確かに修得しつつ、座学中心の一方的教授方法では身につくことの少なかった21世紀型スキルをはじめとする汎用的能力、ひいては新しい学力観に基づくような「自らが学ぶ力」が養われることが期待されている。

 

アクティブ・ラーニングは確かに重要だが、より効率的に学習するためには、従来のコースと並行して行われることが必要である。

 

日本語版ウィキペディアの記述は驚くべきものです。

 

日本語のアクティブ・ラーニングには、教育行政用語と教育学術用語があり、内容が異なるといいます。

 

アクティブ・ラーニングが、科学に基づいて行なわれているのであれば、教育行政用語と教育学術用語があり、内容が異なることはあり得ません。

 

つまり、教育行政と教育学術のどちらか、あるいは、双方が、科学を無視していることになります。

 

「アクティブ・ラーニングは、学修者が能動的に学修に参加する学習法(アクティブ・ラーニング)の総称である」は、同義語反復(トートロジー)で、説明になっていません。

 

 Bonwell & Eison の「生徒が聞いてる時以外は、アクティブラーニングに分類できるという定義」を理解していないことが分かります。

 

「(アクティブ・ラーニングが)ひいては新しい学力観に基づくような「自らが学ぶ力」が養われることが期待されている」と書かれています。

 

新学力観は、臨時教育審議会答申や1987年の教育課程審議会答申で提起され、1989年改定の学習指導要領に採用された学力観のこをさします。

 

 「新学力観」は、日本のローカル・ルールで、科学的な根拠はありません。教育行政用語ですが、教育学術用語ではありません。

 

英語版ウィキペディアでは、学習目標はBloomら(1956)によっています。

<< 引用文献

Bloom, B. S., Krathwohl, D. R., & Masia, B. B. (1956). Taxonomy of educational objectives: The classification of educational goals. New York, NY: David McKay Company

>>

 

英語版ウィキペディアを見る限り、Bloomら(1956)を大きく改訂する必要性は感じられていません。

 

教育課程審議会は、Bloomら(1956)は読んでいないので、学習目標に関するメンタルモデルが、アメリカの教育関係者と共有できていないことがわかります。

 

「より効率的に学習するためには、従来のコースと並行して行われることが必要である」という記述は、英語版ウィキペディアの「能動学習が効率的な理由は、学習中の脳の働きの根本的な特徴を利用している」ことが理解できていないことを示しています。

 

以上のように考えると英語のアクティブ・ラーニングと日本語のアクティブ・ラーニングのメンタルモデルは全く異なっていて、この2つはまったく別の教育法であると言えます。

 

4-3)中央教育審議会 

 

中央教育審議会 の用語集にも、「アクティブ・ラーニング」が、載っていました。

【アクティブ・ラーニング】(p3、4、9)

教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。

<< 引用文献

中央教育審議会 (2012年(平成24年)8月28日). “用語集” 新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて - 生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ(答申). 文部科学省

https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2012/10/04/1325048_3.pdf

>>

 

「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり」から、 Bonwell & Eison の「生徒が聞いてる時以外は、アクティブラーニングに分類できるという定義」を理解していないことが分かります。

 

「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」は、主語のない文章です。

 

単純に考えれば、主語は、「アクティブ・ラーニングは」ですが、それでは、述部の「育成を図る」に対応しません。

 

筆者には、解読不可能ですが、キーワードは、日本語版ウィキペディアとほぼ同じなので、英語のアクティブ・ラーニングと日本語のアクティブ・ラーニングは、まったく別の教育法であるという仮説を変更する必要はなさそうです。

 

5)まとめ

 

いったい何が起こっているのでしょうか。

 

日本では、メンタルモデルの共有ができなくなり、「理解」以前のコミュニケーションが成立しなくなっています。

 

アメリカの教育学は、人文科学ですが、脳科学などの自然科学のノウハウを無視して教育が成り立つとはおもっていません。

 

アメリカの教育行政も、脳科学などの自然科学のノウハウを無視して教育が成り立つとはおもっていません。

 

したがって、因果ではなく、科学的情報の流れを矢印で書けば次になります。

 

因果モデルには、情報の流れが必要ですが、これは十分条件ではありません。

 

脳科学ー>教育学ー>教育行政

 

このフローは、パール先生の「科学の新発見による文化の動揺は、その発見に合わせて文化の方を再調整しない限り収束しない。新発見を隠蔽してもどうにもならないのだ」(p.286)に対応します。

 

日本語版ウィキペディアを見れば、情報のフローがわかります。

これ(アクティブ・ラーニング)により学習内容を確かに修得しつつ、座学中心の一方的教授方法では身につくことの少なかった21世紀型スキルをはじめとする汎用的能力、ひいては新しい学力観に基づくような「自らが学ぶ力」が養われることが期待されている。

 

新しい学力観ー>自らが学ぶー>アクティブ・ラーニング

 

この情報のフローには、脳科学も、教育学も入っていません。

 

したがって、教育行政用語と教育学術用語のアクティブラーニングの間の調整は働きません。

 

上記の情報のフローは、新しい学力観に間違いがあれば、アクティブ・ラーニングが間違えることを示しています。

 

1987年の教育課程審議会答申の新学力観は、いわゆるゆとり教育で、分数のできない大学生を生み出しています。

 

新しい学力観はまったく検証されていない仮説なので、大半が間違いであると思われます。

 

新しい学力観という学習モデルを採用している国は、ありませんので、これは、薬で考えれば、海外の使用実績はゼロ、国内では、効果試験がなされていない薬を飲み続けていることになります。

 

アメリカの教育学は、人文科学ですが、科学の方法を採用しています。

 

日本の文系の人文科学は、訓詁学で、権威の方法を採用しています。

 

「新しい学力観ー>自らが学ぶー>アクティブ・ラーニング」は、「新しい学力観」という権威の方法による説明で、科学の方法ではありません。

 

訓詁学は、科学的に検証されていない「古典に間違いはない」という前提で成り立っていますが、その前提は科学的に間違っています。古典は、交絡因子を無視していますので、使えません。

 

人文科学の伝統的な教育は、古典の多読ですが、科学的に検証されていない「古典に間違いはない」という前提は間違いですので、現在では、この教育法は否定されています。アクティブラーニングは、古典の多読による教育の否定になっています。古典の前例の記憶に価値はありません。自然科学では、古典を読む人は、科学史の専門家だけです。

権威の方法は、法度制度では、上司の命令に無条件に従うことになります。

 

科学の方法が採用されていないので、ジョブ型雇用のような上下関係のないフラットな組織をつくることができません。

 

メンタルモデルの共有ができないので、ディスカッションはできず、対話は非難を繰り返すことになります。

 

メンタルモデルの共有は、民主主義の基礎です。

 

そのためには、読めばわかる良質な教科書が必要です。

 

自然科学では、「メタアナリシス」、「システマティック・レビュー」、「概説」、「エビデンスの統合」など、メンタルモデルの共有は、重要な研究テーマになっています。

 

落ちこぼれ学生と参加資格のない学生は、区別する必要があります。

 

メンタルモデルを共有できない人は、コミュニケーションができないので、議論には参加できません。

 

文系の教育は、科学(特に数学)が理解できなくても、問題解決ができると考えます。

 

しかし、その仮説は、科学的には否定されています。

 

上記の情報のフロー図のように、メンタルモデルで、消去法を使えば、分かります。

 

結局、科学(特に数学)が理解できなくても、問題解決ができるという主張は、権威の方法で問題がないという科学の方法の否定に過ぎません。

 

高等教育の定員の7割が文系という状況は、権威の方法以外を追放してしまいました。

 

権威の方法は。権威のあるポストにつけば、権力と所得が保証されるシステムです。これは、利権システムそのものです。これは、法度制度が中心の中世そのものです。

 

利権システムは、分配の経済(中抜き軽視)であって、市場経済ではありません。

 

中小企業は、毎年3月と9月を「価格交渉促進月間」にしています。

 

つまり、日本には、消費者むけ商品以外の市場経済がありません。

 

パール先生は「科学の新発見による文化の動揺は、その発見に合わせて文化の方を再調整しない限り収束しない。新発見を隠蔽してもどうにもならない」(p.286)といいました。

 

問題は、「価格交渉促進」ではありません。

 

文系の文化の科学の新発見に優先するというルール(権威の方法)が、「科学の発見に合わせて文化の方を再調整」するという科学の方法に優先するまでは問題はとまりません。

 

ただし、文系の教育という世界に例のない権威主義優先のいびつな教育を広めてしまったため非常に大きな社会変動を伴うことになります。