注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。
(33)メンタルモデルと科学
1)人間と科学研究
科学は、科学的なプロセスを経て形成される知識です。
それは、仮説と検証に代表されます。
一方で、科学を作るのは人間です。
科学を作っている人間に注目すれば、科学の別の側面が見えてきます。
ポパーは、科学を作る人間を問題にしませんでした。
クーンは、科学を作る人間に注目して、そこにはパラダイムがあると考えました。
クーンは、科学者間のコミュニケーションを問題にしています。
コンピュータが普及するまでは、連続量をそのまま扱うことは困難でした。
コンピュータでは、ベクトルを1変数で書くことができます。
2つのベクトルの間の演算も簡単です。
これを手計算ですることは大変です。
なので、少し前までは、連続量を離散化して、名前を付けて扱っていました。
現在でも、高齢者といった離散化された連続量が使われています。
離散化された連測量には、ラベルはありますが、実体としての境界はありません。
離散化するとあたかも高齢者といった実体があるような錯覚をおこします。
これは、バイナリーバイアスです。
筆者は、弁証法は、離散化に伴うバイナリーバイアスにすぎないと考えます。
クーンのパラダイムも、離散化に伴うバイナリーバイアスに見えます。
さて、離散化にともなうバイナリーバイアスを無視すれば、パラダイムは、メンタルモデルになるように見えます。
メンタルモデルを共有できなければ、コミュニケーションができません。
背理法で考えれば、コミュニケーションが出来ている場合には、メンタルモデルの共有が出来ていることになります。
この推論は、メンタルモデルの質を問題にしません。
カルトな宗教のメンタルモデルを共有している場合、常識では考えらえないような集団行動が起きます。集団行動が起きているということは、コミュニケーションが成立していることになります。
こう考えると、ポパーとクーンは問題にしませんでしたが、良質なメンタルモデルの共有は、科学の進歩の必要条件です。
2)パール先生の話
「良質なメンタルモデルの共有は、科学の進歩の必要条件」であるという視点で、「因果推論の科学」を読み直すと、パール先生は、メンタルモデルという用語をつかっていないけれど、メンタルモデルについて語っている部分に気付きます。
第1は、因果推論を封印した話です。典型は統計学ですが、統計学は、メンタルモデルから、因果という概念を追放して、相関に置き換えました。その結果、統計学者は、因果について考えることや、因果モデルについてのコミュニケーションができなくなりました。
パール先生は、ホイッグ史観という表現をつかっていますが、検討している内容は、統計学のメンタルモデルの歴史です。
パール先生のホイッグ史観とは、「良質なメンタルモデルが共有出来ていない社会では、コミュニケーションができないので、科学の進歩が妨げられる」ことを指しているように見えます。
第2は、パール先生は、ルービンの因果モデルを認めない点です。パール先生は、「ルービンの因果モデルが共有されるメンタルモデルになった場合、因果推論の科学の発展が阻害される」と考えているようにみえます。
ルービン因果モデルのメンタルモデルでは、最悪の場合には、過去の統計学がメンタルモデルから、因果を追放したのと同じような問題がおこる可能性があります。
パール先生の視点では。統計学が過去におかした「因果」を無視したメンタルモデルを構築してしまったというような間違いを繰り返さないためには、科学者は、メンタルモデルを点検する倫理的な義務を持っているように見えます。
3)メンタルモデルと3+1点セット
復習しておきますと、メンタルモデルは因果推論のベースとなる知識でした。
適切なメンタルモデルを共有することで、コミュニケーションができ、科学が進歩します。
因果推論の科学では、因果モデル以外に、問いと前向き研究によるデータが必要でした。
「メンタルモデル(=>因果ダイアグラム)、問い、前向き研究によるデータ」は、因果推論の科学が成立するためのフレームワークになります。
ポパーの反証可能性、クーンのパラダイムに変わる科学のフレームワークが提示されたことになります。
作業フローには、のりませんが、あと一点、言語の開発を付け加えるべきでしょう。
これを、「3+1点セット」と呼ぶことにします。
さて、ポパーは、反証可能性のない仮説は科学ではないと主張しました。
パール先生は、「3+1点セット」にのらないものは、科学ではないとは言っていません。
しかし、次の疑問が、自然に生じます。
第1は、(フローが、因果推論の科学と一致する必要はありませんが)コミュニケーションが出来る条件(良質なメンタルモデルの共有)、社会が求める期待に答える「問い」、形而上学を回避するデータ、アイデアを記述する言語の「3+1点セット」は、どの科学にも必要な条件であると思います。
この「3+1点セット」を調べれば、ある分野が、科学として成立しているのかが判定できます。
「3+1点セット」は、反証可能性と同じように、まともな科学と怪しい科学を判別する条件になります。
第2は、因果推論以外の科学は可能であるかという点です。
「3+1点セット」のメンタルモデルは、コミュニケーションに必須の条件です。
ただし、メンタルモデルが因果モデルに限定できるのかという点は、現時点ではわかりません。
わかっていることは、因果モデルは、現実の因果関係を単純化したものであるという点です。
単純化する根拠は次の2つです。
第1に、科学は、現象を単純化して理解するプロセスだからです。
第2に、因果推論は、人類が進化の過程で獲得した能力であり、メモリー制約を前提とした能力であるからです。
第2の条件は、人間の能力に由来します。ビッグデータのように、コンピュータを使用するのであれば、メモリー制約条件は不要です。
パール先生は、ビッグデータは、因果推論の代りにはならないといいます。
それは、間違いないと思いますが、ビッグデータのように、メモリー制約のないモデルにも価値があるかも知れません。
因果推論と並んで、記憶は、人間が進化の過程で習得した重要な能力でしたが、コンピュータによって、価値が激減しています。
以下は、疑問ですが、エコシステムの科学は、そのまま扱うには、因果関係が複雑すぎる気がします。仮に、因果推論の科学の限界が問題になるのであれば、このあたりにあると考えます。
4)文系のメンタルモデル
4-1)文系とは
メンタルモデルを論じることには、個別のキーワードの不毛な論争に入る前に、そもそもコミュニケーションが可能かという前提条件を検討できるメリットがあります。
文系には2つの意味(区分)があります。
第1は、コースとしての文系です。
文系のコースでは、数学は必要がないと考えられています。
曽野綾子氏は、中曽根政権における臨時教育審議会(臨教審)のメンバーとして、中学教科書において必修とされていた二次方程式の解の公式を、作家である自分が「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と発言しています。
これは、典型的な数学不要論です。
しかし、メンタルモデルの消去法を使えば、仮に、「二次方程式を解かなくても生きてこられた」としても、仮に、「中学の教科教育を受けなくとも生きていける」ので、この論理は破綻しています。この発言は、臨教審のメンバーが、「中学の教科教育を受けなくとも生きていけますね」と確認しているわけです。曽野綾子氏は、個人的に、二次方程式がお好きでないかもしれませんが、そのことと、最適なカリキュラムの選択を混同してはいけません。
臨教審には、コミュニケーションができる共通のメンタルモデルがなかったと推測できます。
第2は、数学を使わない科学です。
日本では、生物学には数学は不要であると考えられていて、高等学校の文系のコースでは、理科は、生物学しか選択できない場合が多くあります。
さて、今回は、コースとしての文系を考えます。
4-2)文系の時間軸
文系のメンタルモデルを考える上で、時間軸の問題は無視できません。
Excelで、重回帰モデルが解けるようになったのは、1990年頃です。メモリー制約ななくなったのは、Windowsが出てからのなので、1995年以降です。
スマホで、簡単にWEBの電子辞書や自動翻訳が使えるようになったのは、2010年以降です。
1990年以前に数学は不要であるという発言をした場合と、2024年に数学は不要であるという発言をした場合では、指し示している内容は違います。
1990年以前の統計学には、ベイズ統計はなく、正規分布の頻度主義が主なカリキュラムで、教科書の付録には、数表がついていました。
パール先生は、フィッシャーが、因果モデルを封印したといいます。
しかし、仮に、フィッシャーが、因果モデルを封印しなかった場合も、1990年以前の計算機資源では、ベイジアンネットワークの計算はかなり大がかりな計算であったので、普及には限界があったと思われます。
文系の人は、時間軸の概念がないことが多いのですが、1990年以前に使っていたメンタルモデルが、時間軸の進行とともに、時代遅れになります。
4-3)文学部の評価
「文系には、メンタルモデルがあるか」を考えます。
資料は、小谷野敦著「文学研究という不幸」(2010)です。
小谷野敦氏は、恐ろしく物知りで、その記述には圧倒されます。しかし、「文学研究という不幸」の原因は、書かれていません。
小谷野敦氏は、「『古事記』の注釈に至っては、宣長の『古事記伝』を誰も越えられないとまで言われている」(p.146)と言います。
「古事記伝」は、本居宣長が、1822年に出版した書籍です。ウィキペディアには、次のように書かれています。
<
「古事記伝」は、「古事記」の当時の写本を相互に校合し、諸写本の異同を厳密に校訂した上で本文を構築する文献学的手法により執筆されている。さらに古語の訓を附し、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっている。宣長の「古事記伝」は、近世における古事記研究の頂点をなし、近代的な意味での実証主義的かつ文献学的な研究として評価されている。宣長は「古事記」の註釈をする中で古代人の生き方や考え方の中に連綿と流れる一貫した精神性、即ち「道」の存在に気付き、この「道」を指し示すことにより日本の神代を尊ぶ国学として確立させた。
>
注釈をつけるのは、訓詁学の伝統で科学ではありません。
<「道」の存在に気付き>は、帰納法でしょうか。
<『古事記伝』を誰も越えられない>という説明は、注釈が唯一の研究方法であるというメンタルモデルを示しています。一方、<「道」の存在に気付き>の部分のメンタルモデルは不明です。
筆者には、「文学研究という不幸」の原因は、共通するメンタルモデルがなく、コミュニケーションが成立していないことにあると感じられます。共通するメンタルモデルがありませんので、「3+1点セット」もありません。
4-4)法学部の評価
法学部については、詳しく調べてはいませんが、気になった点だけ記しておきます。
RCTの影響で、エビデンスに基づく法学が海外では、拡大していますが、日本では普及していません。そこで、法学部の教授や弁護士が、海外のエビデンスに基づく法学を調べて、解説しています。その結果の一部は、ネットで検索すれば、見つかります。
興味深いことに、法学部の教授も弁護士も、エビデンスに基づく法学は、単なる手法の1つに過ぎないと書いています。
メンタルモデルが理解できれば、「単なる手法の1つ」の意味は理解できます。
「エビデンスに基づく法学」を理解するには、統計学、少なくとも交絡因子がなぜもんだいであるかという点について、統計学のメンタルモデルが出来ている必要があります。
法学部の教授と弁護士は、恐らく、統計学のメンタルモデルではなく、法学のメンタルモデルの持ち主です。したがって、「エビデンスに基づく法学」を法学のメンタルモデルで解読します。そうすれば、「エビデンスに基づく法学は、単なる手法の1つに過ぎない」ことになります。
統計学のメンタルモデルが共有できないと養老孟司氏の「バカの壁」ができます。
法学部の教授と弁護士は、権威のある人なので、「エビデンスに基づく法学は、単なる手法の1つに過ぎない」と考える人が出てきます。
この場合、発言者は、フェイク情報であるとは思っていません。しかし、正しいとは言えないと思います。
文系の識者と「3+1点セット」について議論することは、メンタルモデルが異なるので、困難になります。
5)ジョブ型雇用
年金額が減っているので、健康であれば、隠居しないで、働き続ける必要のある社会に移行しつつあります。
筆者は、健康であれば、働き続けることには、抵抗がありませんが、年功型雇用で行なわれているような不本意な仕事を強要されることはいやです。
仕事が社会の役に立っているという確信が持てない仕事を続けることは、ストレスになります。
野口悠紀雄氏は、「いつまでも働ける社会」を論じています。
しかし、そこには、疑問があります。
本当に、不本意な仕事を強要されないジョブ型雇用が実現するのだろうかという疑問です。
「3+1点セット」を見直してみると、これは、ジョブディスクリプションになっています。
「因果推論の科学」で、因果推論のジョブをこなす方法(解析方法)は、図1になっています。
図1のようなフローが書けないと、ジョブディスクリプションは欠けません。
ジョブディクリプションは、科学の方法が理解できていないと書けないのです。
<< 引用文献
65歳以降も仕事は可能なのに…「いつまでも働ける社会」を阻害している「高齢者へのペナルティー」 2024/07/28 現代ビジネス 野口悠紀雄
https://gendai.media/articles/-/134377
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