「因果推論の科学」をめぐって(27)

注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。

 

(27)反事実2.0の異常事態

 

1)定義の要約

 

時系列データがある場合を想定します。現在時刻をt=0として、将来(t=+1)の予測結果E(+1)を考えます。

 

トレンド予測の結果「結果E(+1|trend)」と因果モデルの予測の結果「結果E(+1|do)」を比較することを反事実2.0と呼ぶことにします。

 

因果推論をする理由は、現状の「結果(t=0)」を変更したい(問題を解決したい)からです。

 

つまり、因果モデルの予測の結果「結果E(+1|do)」は、現状の「結果(t=0)」とは大きく異なります。

 

一方、トレンド予測の結果「結果E(+1|trend)」は、現状の「結果(t=0)」に似ているはずです。

 

つまり、トレンド予測の結果「結果E(+1|trend)」は、現状の「結果(t=0)」(事実)に似ていますし、因果モデルの予測の結果「結果E(+1|do)」は、現状の「結果(t=0)」(事実)とは大きく異なります。

 

現状の「結果(t=0)」を「事実」と呼ぶのは、乱暴ですが、特に、混乱がなければ、因果モデルの予測の結果「結果E(+1|do)」を反事実2.0と呼ぶことにします。

 

同様に、現状の「結果(t=0)」(事実)に似ているトレンド予測の結果「結果E(+1|trend)」を、事実2.0と呼ぶことにします。

 

2)科学的な推論

 

科学的な推論は、因果モデルによります。反事実2.0が科学的な推論の結果です。

 

パール先生は、統計学が因果モデルを封印したと批判しています。

 

しかし、仮に、回帰モデルを因果モデルの代りにつかった場合でも、科学の手法であれば分析の意図は、反事実2.0の推定(結果を実現する原因の探索)にある場合が多くなります。

 

時系列のトレンド予測には、因果関係はありません。トレンド予測は科学的には、間違った予測です。

 

物体の運動には、慣性力があります。どんなに高性能な自動車でも、90度の角度で曲がることはできません。

 

株価の時系列チャートで、変動幅が大きいと、高騰や暴落など異常事態と判断されます。これは、株価には慣性力が働きにくくボラリティが大きくなることを指します。

 

製造業の工場では、生産ラインをとめない限りは、製造量には、慣性が働きます。

 

つまり、トレンド予測は、科学的に間違った推論ですが、慣性がある場合には、短期的には、それなりのパフォーマンスが得られます。

 

人文科学と社会科学で多用されているデータに帰納法をあてはめる場合を考えます。

 

手法がトレンド予測の場合には、因果構造と関係がありませんので、慣性の効く短期予測以外では、まったく意味のない推論になります。

 

株価が上昇しているとき、あと1週間株価が上昇するという予測をすれば、その予測が当たる可能性が高いですが、あと10年株価が上昇するという予測は、確実に外れます。

 

手法が因果モデルの場合には、因果構造が変わらない限り、正しい予測ができます。

しかし、この方法には問題があります。因果構造が変わらなければ、因果モデルの予測とトレンド予測には大差がなくなります。

 

解析をする目的は、現状を変えたいという反事実2.0にあります。

 

少子化(少ない出生数)の問題は、将来の出生数が変わらないこと(事実2.0)にあります。統計データには、観測済みの現在の出生数がとりあげられますが、この値は、変更不可能であって、問題は、トレンド推定である事実2.0にあります。

 

解析の目的は、反事実2.0の実現です。

 

これは、現在の因果構造を変えることが出来るかという問題に置き換えられます。

 

つまり、帰納法では、永久に問題解決ができません。

 

科学を、「Science for peple」と定義するのであれば、問題解決のできない帰納法偏重の人文科学と社会科学は、科学とは言えません。

 

人文科学と社会科学が、帰納法偏重になって、科学とは言えない状態になっているのは、日本固有の現象であり、欧米には存在しません。

 

筆者は、その理由は、法度制度のミーム、数学を無視した文系の教育、訓詁学の伝統にあると考えますが、この問題を分析した論文はありません。

 

この推測が正しいとすれば、文系の教育では、反事実2.0が無視されていることになります。

 

3)アブダクション

 

反事実2.0は、解析の目的であり、評価関数です。

 

猫を識別する画像認識では、事実2.0が、識別率70%であれば、反事実2.0はより高い識別率になります。

 

少子化であれば、特殊合計出生率が1.2が、事実2.0であれば、反事実2.0は、より高い(2.2のような)特殊合計出生率になります。

 

推理小説であれば、事実2.0が犯人が特定できていない状態であり、反事実2.0は犯人が特定できている状態になります。

 

結果を実現する原因を探索する推論はアブダクションです。

 

アブダクションができれば、因果モデルができます。

 

アブダクションでは、複数の因果モデルができますが、どれが正しいかは、因果モデルだけからはわかりません。

 

データと付き合わせて、問題のある因果モデルを消去することで、有望な因果モデルに絞りこむことができます。

 

因果モデルをつくって、選抜するには、高度な知識が必要ですが、反事実2.0を提示することは誰でもできます。

 

依頼人は、ホームズに、「犯人を探してください(反事実2.0を実現する因果モデルを特定してください)」と言えば、あとは、ホームズの出番になります。

 

4)新しい解決法

 

問題があった場合に、新しい解決法を提示することは、科学の方法の因果推論では新しい因果モデルを提示することです。

 

温暖化対策で、CO2の排出が減っている状態(反事実2.0)を実現する手段(因果モデル)には、複数のアプローチがあります。EVは、ガソリンの自動車のCO2排出とは異なった因果モデルを使う提案になります。

 

ガソリン自動車、EV、ハイブリッドは、異なる因果モデルです。どの因果モデルが一番有効になるかは、技術レベルにより異なりますので、一概には、決まりません。

 

ホームズのように、常に、犯人が一人に絞れる訳ではありませんので、データを更新して、比較する必要があります。

 

ガソリン自動車の場合、EVを提案することは、新しいCO2の排出抑制方法を提案することになります。

 

ここでは、「新しい=従来にない因果モデル」になっています。

 

新しい手法の目的は、CO2の削減(反事実2.0)にあります。

 

問題を解決するためには、「反事実2.0を提示して共有すること、反事実2.0を実現する因果モデルを作成すること」が必要です。これが、新しい解決法になります。

 

CO2の排出量を削減するときに、ガソリン自動車の燃費改善を提案できます。しかし、この手法を新しい解決法であると認めてくれる人はいません。

 

EVのアイデアは、ガソリン自動車よりも古いと言われますが、実用化ができた理由は電池の性能向上にあります。

 

政府は、新しい資本主義といいましたが、だれも、「新しい」という言葉を真に受けている人はいません。その理由は、新しい資本主義には、新しい因果モデルがないからです。

 

新しい資本主義は、ガソリン自動車の燃費改善を提案しているような内容なので、効果が限定的なことは自明です。

 

政府は、健康保険証を廃止して、マイナンバーカードに統一する計画です。

 

マイナンバーカードは、新しい解決法ではありません。

 

新しい解決法の条件は、「反事実2.0を提示して共有すること、反事実2.0を実現する因果モデルを作成すること」でした。

 

マイナンバーカードは、この条件を満たしていません。

新しい資本も、マイナンバーカードも、新しい解決法の条件を満たしていませんし、そもそも、反事実2.0はありません。

 

ホームズは、依頼人から、犯人探しを依頼されていないのです。

 

5)異常事態

 

パール先生の表現を借りれば、反事実2.0が共有されていない(評価関数が設定されていない)のは、異常事態です。

 

反事実2.0が共有されていなければ、先に進むことができません。

 

マイナンバーカードに、DXの効果があるか」が問題ではなく、反事実2.0(DXの効果)を結果(目的)として、マイナンバーカード(原因、手段)が設計されていないのですから、異常事態です。

 

簡単に言えば、問題を解決するメカニズムが存在しません。

 

小林麻央さんが、標準治療を拒否して民間療法(気功)に頼っていたことが、死亡率の低い乳がんで亡くなった原因であると言われています。

 

現在の政府の政策は、エビデンス(評価関数)のない民間療法レベルになっています。

 

「反事実2.0が共有されているか」をみれば、異常事態がどこまで広がっているかを調べることができます。

 

年金問題には、反事実2.0はありません。

 

検討は、すべてトレンド予測(事実2.0)の範囲で進められています。

 

<< 引用文献

放置された「国民年金の給付水準低すぎる」大問題 2024/07/21 東洋経済 野口 悠紀雄 

https://toyokeizai.net/articles/-/780256

>>

 

国民年金の給付水準が低すぎる」ことは、政策の選択肢です。これ自体には、良し悪しはありません。

 

しかし、この選択肢を選択した場合には、極端な治安の悪化を受け入れる必要があります。

 

人間は、食べられなくなれば、法律を守ることより、食べることを優先します。

 

トレンド予測の事実2.0は、「国民年金の極端に低い給付水準」です。

 

反事実2.0には、幾つかのレベルがあります。

 

その中で、最も低い給付水準は、最低限の生活ができるレベル(極端な治安の悪化が起らないレベル)です。

 

一度、治安が悪化してしまうと、元に戻すことは非常に困難になります。

 

治安を元に戻すコストを考えれば、最低限の生活ができるレベルに給付水準を維持する方がコストがかからないはずです。

 

もちろん、最低限の生活ができるレベルに給付水準を維持するためには、膨大な財源が必要になります。おそらく、産業振興、医療費などは、大幅削減する必要があります。

 

高額医療費は、公的補助の対象から外して、浮いた財源を国民年金に回す方が、便益が大きくなるはずです。

 

治安が悪くなって、高額医療をうけるために病院に行く途中で、殺人事件に巻き込まれる場合を考えれば。優先順位は判断できます。

 

反事実2.0は、見つかりません。

 

異常事態が蔓延しています。

 

考えられる原因は2つあります。

 

第1に、利権のシステムを阻害する反事実2.0が封印されている可能性があります。

 

ホームズに犯人捜しをしてもらうと、共犯で捕まる人がいれば、反事実2.0を封印します。

 

第2に、日本の文系の学問は、数学が必要な反事実2.0を封印している可能性があります。

 

どちらの場合も、現在の因果構造の保持する選択になります。

 

因果構造が変わる(経済成長する)日本という問題設定はなされていません。