注:これは、ジューディア・パール、ダナ・マッケンジー「因果推論の科学―「なぜ?」の問いにどう答えるか」のコメントです。
(24)数学が全て
1)評価関数のミーム
パール先生の「因果推論の科学」は、コンピュータ・サイエンス(人工知能)の理論に関する本です。
「因果推論の科学」には、人工知能のミニ・チューリングテストの話が出ています。
工学では、解決すべき問題を設定して、それにあわせて、手法開発をします。
解決すべき問題は、評価関数ともいえます。
人工知能のミニ・チューリングテストでは、「何人のジャッジが、人工知能と人間の区別ができないか」が評価関数になります。
画像認識の評価関数では、猫の写っている画像を識別できる確率を計算します。
工学のミームでは、評価関数を設定することは、常識になっていて、この設定に疑問をいだく技術者や研究者はいません。
仮に、評価関数が設定できなければ、提案された問題解決法の選抜ができません。
画像認識のコンペをすれば、毎年100以上の画像認識システムがコンペに参加します。
10年も続ければ、1000以上の画像認識システムが登場します。
評価関数がなければ、1000以上の画像認識システムが共存するカオスになります。
このような状態が望ましいと考える技術者は、皆無です。
ですから、評価関数の適切な設定は、問題解決のスタートにおいて重要な共通認識になります。
パール先生は、評価関数に、人工知能のミニ・チューリングテストを考えています。
評価関数の設定は、主観ですが、よく協議して、対象の分野の専門家が納得でき、共有できる必要があります。
さて、工学のミームがあれば、何の疑問もない評価関数ですが、文系のミームでは違います。技術者は、工学のミームに従ったマインドモデルを持っているので、文系のミームのマインドモデルを理解できない場合が多いです。
評価関数が受け入れられるためには、次の前提が必要です。
第1に、数学とプログラミングができる前提があります。問題解決の手段には、数学(微分方程式など)やプログラミング(繰り返し計算など)を必要とします。
第2に、評価関数の設定は、スタート時点では、解決法が存在しない(解決法を開発する必要がある)ことを前提としています。これは、問題解決には、反事実のアプローチが必要であり、前例主義(帰納法)では解決できないという暗黙の了解になります。
以上の2つの前提は、前例主義(帰納法)を、ほぼ、唯一の問題解決手段としている文系のミームでは、受け入れ難いものです。
2)インフレ政策
加谷珪一氏は、インフレ対策について次のように書いています。(筆者要約)
<
経済学の教科書を読むと、インフレにはディマンドプル・インフレと、コストプッシュ・インフレの2種類があると記述されている。
ディマンドプル・インフレとは、消費者や企業が製品やサービスをより積極的に購入しようとするため、自然と価格が上がっていくという仕組みである。
一方、コストプッシュ・インフレは、資源価格の高騰などコストが増大し、企業がコスト増加分を最終価格に転嫁することで物価上昇が発生するメカニズムのことを指す。
これらの用語は、インフレのメカニズムを初心者にも分かりやすく説明できるよう、教科書的にあえて分類しているに過ぎず、実際にはこうした単純なメカニズムだけでインフレが発生することはまずあり得ない。
広範囲にあらゆる物価が上昇する時には、多くの場合、背後に貨幣的要因あるいは財政的要因が絡んでいる。そのメカニズムを明らかにしなければ実際の現象を説明したことにはならない。
政府や日銀などがこうした用語を使って説明している場合には、問題を矮小化したり、本質的な議論から話題をそらそうとする意図があるので注意が必要だ。
>
<< 引用文献
「厳しい物価高」は、結局いつまで続くのか…? 現在の「インフレ」が「一時的なもの」ではなさそうな理由 2024/07/17 現代ビジネス 加谷珪一
https://gendai.media/articles/-/133828
>>
加谷氏は、大学では、原子力工学を専攻していますので、工学のミームの持ち主です。
「背後に貨幣的要因あるいは財政的要因が絡んでいる。そのメカニズムを明らかにしなければ実際の現象を説明したことにはならない」という発言は、因果推論をすべきであるという主張です。
パール先生は、まだ問題があるといいますが、構造方程式モデリングや同時方程式モデル(p.138)、を使えば、正解の近くに行くことができます。加谷氏の発言は、このレベルのモデルを想定していると思われます。
経済学の教科書は、2階建てです。
1階部分は、微分を使わずに、図式解法で説明します。文系の経済学です。この部分は、工学の技術者には、耐えがたい苦痛です。この部分では、数学のレベルを下げることが良い教科書の条件になっています。連立方程式は難しいので、ツルカメ算をつかう説明です。
修士課程までに使われている経済学の教科書は、この1階部分に相当します。
加谷氏が、「インフレのメカニズムを初心者にも分かりやすく説明できるよう、教科書的にあえて分類しているに過ぎず」と言っているのは、1階部分の教科書を指します。
2階部分は、微分がわかっているとして、書かれた教科書です。理系の経済学です。
2階部分の経済学は、カリキュラムとしては、博士課程レベルといいたいところですが、博士課程でも、文系の経済学を使っている人が多くいます。
2階部分の経済学は、カリキュラムではなく、数学は趣味といった個人の資質に支えられているように見えます。
2階部分の経済学の教科書がマスター出来ている場合には、それなりの数学の力があるはずです。
ブラックショールズ方程式が出てきたときに、ブラックショールズ方程式を簡単に理解できる経済学者と経済の専門家はほとんどいませんでした。
つまり、2階部分の経済学が理解できている人(高度人材)は稀なことがわかります。
加谷氏は、「政府や日銀などは、教科書の用語を使って問題を矮小化したり、本質的な議論から話題をそらそうとする意図がある」といいます。
しかし、政府や日銀が、文系の経済学のレベルに止まっているのであれば、「意図がなく」とも、教科書の用語を使って、本質的な議論を回避することしかできないと考えられます。数学ができなければ、他に選択の余地はありません。
工学の評価関数のミームで考えれば、経済政策の評価関数を生産性(イノベーション)以外に設定することはあり得ません。
インフレは途中のプロセスです。
猫の画像認識のシステムで考えれば、画像の読み取り速度が速いシステムが良いシステムであると考えるようなものです。
もちろん、画像の読み取り速度を評価関数に設定すれば、クレームを付ける人が出てきて、軌道修正がなされます。
工学のミームで考えれば、政府の経済政策は、インフレが、評価関数に見えます。
しかし、インフレが評価関数であれば、クレームが出てきて当然です。
なぜ、クレームが出てこないのでしょうか。
これは、文系のミームでは評価関数を設定することは、禁止されているからだと考えれば説明がつきます。
評価関数を設定すれば、数学の出来ない人は、排除されます。
それでは、1階部分の経済学の専門家の立場がなくなります。
評価関数は設定せずに、あくまで、前例主義(帰納法)を維持したいという意図があります。
「その専門分野が科学的にまともか、反事実に対応して問題解決ができるかという疑問に対して、評価関数が設定されていない場合には、ダメ出しをしてもよい」と考えられます。
この公式を使えば、少子化対策など、多くの課題の解決がまったく進まない理由が理解できます。評価関数がないのです。
評価関数がないと、1000以上の画像認識システムが共存するようなカオスになっていると考えればわかります。
3)テクノ・リバタリアン
「テクノ・リバタリアン」は、橘玲氏の本です。この本は、アメリカでは、数学による統治が進んでいる事例を紹介しています。
<
日本ではヨーロッパ哲学やフランス現代思想(ポストモダン)については数えきれないほどの本が出ているが、リバタリアニズムは無視されるか、アメリカに特有の奇妙な信念(トランプ支持者の陰謀論)として切り捨てられている。
>(p.260-261)
20世紀後半の哲学は、アメリカを中心に回っています。アメリカの哲学は、プラグマティズムです。アメリカでは、哲学とはプラグマティズムを指します。プラグマティズムは、形而上学の否定であり、哲学の伝統を引いていますが、正確には、哲学ではありません。伝統的な哲学は、オブジェクト名で考えますが、プラグマティズムは、インスタンスを問題にします。x、yといった名前は、単なる識別子にすぎません。コンピュータサイエンスでは、変数名(オブジェクト)と値(インスタンス)を区別します。コンピュータ科学者のパール先生の哲学は、プラグマティズムになります。プラグマティズムは常に、インスタンスを問題にします。インスタンスのないプログラムは実行不可能です。これは、コンピュータのメモリに格納されているのは、インスタンスであるからです。
プラグマティズムは、科学を拡張する方法を対象にした学問です。
ウィトゲンシュタインは、将来、哲学は、数学になるだろうと予想していました。筆者には、パール先生の「因果推論の科学」は、ウィトゲンシュタインが予言した数学としての哲学に見えます。
日本では、プラグマティズムは、理解されていません。
日本語版と英語版のウィキペディアを比べればわかりますが、日本の人文科学は、帰納法と訓子主義に偏っていて、アメリカではまったく通用しません。
「テクノ・リバタリアン」は、文系の価値観で書かれています。
橘玲氏は、「功利主義は正義感を欠いている」(p.28)といいます。
<
ジェレミ・ベンサムによって唱えられた功利主義は、「最大多数の最大幸福」として知られる。政治思想は「正義」の本質をめぐる争いだが、ベンサムはこれを不毛な神学論争だと批判し、「なにがよい政治家かは結果で判断すべきだ」と主張した。これは「帰結主義」で、いわば「結果オーライ」の思想だ。
功利主義者は、「どの政治的・道徳的主張が正しいかなんてわからない」という立場(不可知論)をとる。だた、わたしたちが社会の中で生きていきためにには、なにが正しくてなにが間違っているのかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが”正しい”」と決めてしまうので(「とにかくやってみよう」というこの考え方を「プラグマティズム」といい、アメリカ的な楽観主義の理論的基礎になった)
>(pp.29-30)
「帰結主義」は、形而上学の哲学が、プラグマティズムを批判する口実です。
<「正義」の本質をめぐる争いだが、ベンサムはこれを不毛な神学論争だと批判>した点は、インスタンスを無視した形而上学の否定です。
インスタンスを無視すれば、観測不可能になり、科学の方法が使えません。
功利主義は、形而上学では、「どの政治的・道徳的主張が正しいかなんてわからない」という立場をとりますが、不可知論ではありません。
王権神授説では、王様は、自分が正義であるといいます。王様が正義を使うと、気に入らない人は殺されてしまいます。
政治主導では、選挙に当選することが正義になると、政治家に忖度しないと、左遷されてしまいます。
官僚主導では、公務員試験に合格することが正義になると、官僚に忖度しないと、村八分にされてしまいます。
形而上学の正義は脇において、忖度しないと左遷や村八分になるインスタンスが問題です。
選挙に当選したことは観測可能ですが、当選した政治家が「正義」を実行しているか否かは、観測できません。
王権神授説のような形而上学はやめませんかという主張が、プラグマティズムです。
血縁関係にある王様、選挙に当選した政治家、公務員試験に合格した官僚の意思決定を優先することは権威の方法であり、科学の方法をとるプラグマティズムでは間違いです。
プラグマティズムは科学の方法の拡張です。
プラグマティズムの方法の正しさは、形而上学で保証されません。
<なにが正しくてなにが間違っているのかの判断が必要になるので、「いろいろやってみて、うまくいったものが”正しい”」と決めてしまう>という記述には。方法の正しさと結果の正しさの混乱があります。
プラグマティズムの方法の正しさは、形而上学では決まらないので、方法をバージョンアップすることで実現します。「いろいろやってみる」方法ですが、これは、科学の方法です。
プラグマティズムの関心は、権威の方法(形而上学)に、かわるブリーフの固定化法を見つけることにあります。
結果の正しさは、検証可能な場合には、チェックできますが、検証不可能な場合も多いので、重要な項目ではありません。
<「プラグマティズム」は、アメリカ的な楽観主義の理論的基礎>は偏見です。
この偏見は、プラグマティズムが、実用主義であるという間違った説明と共に、日本では広く流布しています。
プラグマティズムの提唱者のパースは、歴史上最も貧しい哲学者です。食事にも事欠いて、見かねた近所のパン屋が売れ残ったパンを提供して、古パンで飢えを凌いだと伝えられています。パースが亡くなったときには、埋葬する費用が捻出できず、未亡人は、自分がなくなるまで、夫の遺骨を身近においていました。
こうした事実を知れば、プラグマティズムが、「アメリカ的な楽観主義の理論的基礎」であるとは言えません。
「プラグマティズム=成金主義=資本主義」は、権威の方法を維持したい人が、科学の方法を追放するために捏造したプロパガンダです。
権威の方法を維持したい人は、功利主義は間違っているというプロパガンダを広めています。
評価関数は、功利主義です。
つまり、功利主義とは、科学の方法になります。
科学の方法がひろがると、権威の方法は通用しなくなります。利権は消滅します。
権威の方法を維持したい人は、<政治思想は「正義」の本質をめぐる争い>といって形而上学をふりまわし、危険思想であるプラグマティズムを追放したいのです。
トランプ前大統領銃撃時の警備については、第3者員会が検討しています。
安倍前首相銃撃時の警備については、第3者員会は設置されませんでした。
この違いは、アメリカでは、科学の方法(客観評価)が使われているが、日本では、権威の方法が使われていることを示しています。
権威の方法では、問題解決はできません。これは数学の問題です。