(データサイエンスの仮説について説明します)
1)英雄のコーダのトランペット
ベートーベンの第3交響曲「英雄」の第1楽章のコーダに出て来るトランペットは、指揮者を悩ませる部分です。
コーダの最後に、トランペットが、第1主題を盛大に奏で始めます。
次第に、盛り上がっていく途中で、ベートーヴェンは旋律をトランペットから木管に切り替え、トランペットを、急に伴奏にまわしています。
ベートーヴェンは旋律を途中で止めさせた高音の部分(実音の高いB♭)は、当時のバルブのないナチュラルホルンでは、安定した音を出すには、高度な技術が必要でした。初演の団体のトランペットの技術レベルでは、安定した高音は期待できなかったと予想されています。
現代のバルブ付きトランペットでは、安定した高音は簡単に出せます。
そこで、ワインガルトナーは、第1楽章コーダで、トランペットのテーマがと高らかに演奏されるのが「英雄」らしいと考え、楽譜を改訂しています。
1960年頃までは、「英雄」の演奏では、ワインガルトナー改訂版の方式が普及していました。
「第1楽章コーダを楽譜どおりに吹かせた先駆者はシェルヒェン(ウィーン国立歌劇場管弦楽団、ウェストミンスター、1958年)、モントゥー(コンセルトヘボウ、PHILIPS,1962年)あたりからです。
現代オーケストラの弦楽器の音量は古楽器より大きくなっているので、原典通りに第1主題の旋律をトランペットから、音量の少ない木管に切り替えると、第1主題が聞き取りにくくなります。
1960年以降、古楽器をつかった原典に忠実な演奏が普及しました。
古楽器の弦楽器の音は小さいので、木管に切り替えても、第1主題が聞き取りにくくなることはありません。
モダンオーケストラでも、古楽器を参考に、楽器の音量のバランスに注意すれば、原典通りの演奏でも、第1主題がが聞き取りにくくならない工夫はできます。
指揮者アーノンクールは「1楽章のトランペットは英雄が撃たれて死んだ事を示し、それは2楽章の葬送行進曲に続く」と述べています。
つまり、ベートーベンは、トランペットの第1主題は、途中で消すように作曲していたと考えています。
こうなると、ワインガルトナーの改訂は要らぬおせっかいであった可能性が高くなります。
2)理解すること
英雄のトランペットの事例を取り上げた理由は、そこに、理解することの本質があると考えるからです。
1960年から1990年頃まで、クラシック音楽の世界では、古楽器による原典主義とモダン楽器による演奏の対立がありました。
1950年から1980年頃までは、多くの演奏家は出来るだけ楽譜に忠実に演奏することがよいと考えました。これは美術運動の新即物主義にそった演奏ともいえます。音楽では楽譜にない細かな表情をつける必要がありますが、それは、目だたないように、必要最小限にすべきであるという考えです。
音楽は、楽譜に書かれているので、楽譜を尊重せよという考えです。
古楽器演奏が盛んになり、古い原典の楽譜が研究された結果、「音楽は、楽譜に書かれている」とは単純に言えないことがわかってきます。同じ楽譜の記号でも、意味するところは、地域と年代で異なります。楽譜は、演奏のための資料であって、演奏家には、楽譜にない音を加えることが求められている場合もあります。
例えば、モーツアルトは、ピアノ協奏曲で、演奏者がアドリブで装飾音を付けることを前提に作曲していました。
依然として、楽譜は演奏のための主な読解の手引きではありますが、全てではありません。
音楽は、音(素材、データ)と音を組み立てるルール(アルゴリズム)から、構成されます。
ワインガルトナーは、トランペットの音は、ナチュラルトランペットからバルブ付きトランペットに変化したので、それに、併せて、アルゴリズムの一部である楽譜を改訂しました。
ここで、筆者が、問題にしたいことは、ワインガルトナーの改訂の是非ではありません。
ワインガルトナーは、英雄を深く理解していたという事実です。
古楽器で、出来るだけ初演当時の演奏を再現することはできます。
しかし、その演奏で感動するとは限りません。
トマス・ビクトリアのようなルネッサンスの宗教音楽は大変美しいです。
当時の人はその音楽に感動したと思われます。
しかし、ロックやポップのリズムに慣れた多くの現代人が、ビクトリアの音楽を聞いても、どれも、リズムが曖昧な眠くなる音楽だと感じます。
現代人も、トレーニングを積めば、ビクトリアの音楽に感動することができます。しかし、トレーニングを経ても、ルネッサンス時代の人と同じように、ビクトリアの音楽を聴けているかと聞かれれば、疑問は残ります。
筆者は、音楽を理解することは、ワイイガルトナーが行ったように、音楽を「音(素材、データ)と音を組み立てるルール(アルゴリズム)」に分解して、再構築(ここでは、トランペットの楽譜を書き換える)することだと考えます。
指揮者アーノンクールは、原典通りの楽譜で演奏していますが、木管が第1主題を演奏する部分で、モダンオーケストラのバランス(アルゴリズム)を大きく変更しています。つまり、音楽を「音(素材、データ)と音を組み立てるルール(アルゴリズム)」に分解して、再構築しています。
3)仮説を立てること
アメリカの生物学の教科書では、一番最初に科学とは何かという説明が出てきます。
そこでは、科学は仮説をつくって、検証する手順を踏み、検証を通りぬけた仮説が、学説になると説明されます。
これは、科学的方法論の説明です。
問題は、仮説をどうして作るかという点にあります。
残念ながら、系統的な仮説の作成方法はありません。
教科書に書かれている方法は次のようなものです。(注1)
(1)何ごとにも、疑問と興味を持ちなさい
(2)自然を観察して、観察の中から、仮説を見つけなさい。
仮説を生みだす原動力としては、観察研究の重要性が説かれます。
なお、これは、生物学の教科書です。物理学や化学では、観察で新しい仮説を見つけることが困難です。新しい仮説は、不合理な実験結果の分析から、生まれる場合の方が多いと思います。
いずれにしても、科学は仮説が、学説になったものであるというパラダイムが共有されています。
仮説や学説は、アルゴリズムの一種ですから、「科学はアルゴリズムに宿る」というパラダイムになります。
クラシックの演奏で言えば、英雄の楽譜を使って演奏すれば、その音楽は、ベートーベンの英雄になるという解釈です。
第4のパラダイムのデータサイエンスでは、科学は、「データとアルゴリズム」から構成されます。
統計学の法則は、常に、ある母集団に対してのみ有効です。
物理学の法則のように、万物に当てはまる万有引力のような便利な法則はありません。
データサイエンスの仮説は、「データとアルゴリズム」から構成されます。
クラシックの演奏で言えば、英雄の演奏とは、音楽を「音(素材、データ)と音を組み立てるルール(アルゴリズム)」に分解して、再構築する行為になります。
「データとアルゴリズム」から構成されるデータサイエンスの仮説は、非常に、強力なツールで、理論科学や計算科学が利用できない分野で活躍し、経験科学を圧倒しています。
英雄のトランペットで取り上げたようにデータサイエンスの仮説は、芸術との共通点が多くあります。
それは、どちらも、「対象(オブジェクト)をデータとアルゴリズムに分解して再構築する」からです。
STEM教育( Science、 Technology、 Engineering、Mathematics)に、Artsを加えて、
STEAM教育にするメリットはここにあると考えます。(注2)
スノーの「二つの文化と科学革命」は、日本では人文的文化に都合の良いように勝手に改竄されて解釈されています。
グレイの第4のパラダイムは、新たに、データサイエンスのパラダイムが出現したことを主張しています。
データサイエンスのパラダイムの出現とは、仮説と検証のパラダイムが入れ替わったことを指しています。
経験科学のパラダイムでは、理解することは過去の事例を記憶していて、いつでも引き出せることでした。
理論科学のパラダイムでは、理解することは、仮説(アルゴリズム)は理解でき、式の変形が出来て、簡単な場合には、数値解を求めることでした。
計算科学のパラダイムでは、理解することは、実測値に合う数値計算モデルを作成して、モデルを使って、条件の異なる場合の予測を行うことでした。
データサイエンスのパラダイムでは、理解することは、オブジェクトをデータとアルゴリズムに分解して、再構築することです。
データサイエンスのパラダイムの理解を取り扱った本は殆どありません。
この本では、読者とパラダイムの理解への旅に出かけて見たいと思います。
注1:
仮説の作成は、探求学習に相当します。
つまり、現在のカリキュラムの改訂には、「データとアルゴリズム」の視点は含まれておらず、データサイエンティストが参画していないことがわかります。
注2:
文部科学省のSTEAM教育の説明は以下です。
人文的文化で、科学的文化が理解できるという誤り(文系・理系といった枠にとらわれず)は修正されていません。また、第4のパラダイム(データサイエンス)も出てきません。検証を行わない文系というシャーマン教育を行っている国は、世界でも日本だけです。
「AIやIoTなどの急速な技術の進展により社会が激しく変化し、多様な課題が生じている今日、文系・理系といった枠にとらわれず、各教科等の学びを基盤としつつ、様々な情報を活用しながらそれを統合し、課題の発見・解決や社会的な価値の創造に結び付けていく資質・能力の育成が求められています」
引用文献
STEAM教育等の各教科等横断的な学習の推進