(人文的文化と経験科学の間には、ギャップがあります)
1)経験科学と理論科学
経験科学は、理論科学と比べると検証があまいので、どこまで、科学と見なすかは判断が分かれます。
しかし、経験科学は、科学という看板を掲げているので、問題が理論科学によって解けることが明らかになれば、理論科学に道を譲ることは当然であると考えています。
一方、人文的文化は、研究手法が経験科学とかなり重複しているにもかかわらず、科学的文化とは独自の間違いのない体系を有していると考えています。このため、理論科学に道を譲りません。
筆者は、スノーが、埋められない断絶があると主張するのは、この点にあると考えます。
経験科学は、マイクロソフト研究所のグレイの4つのパラダイムを受け入れます。そして、理論科学、計算科学、データサイエンスのテリトリーが拡大して行けば、経験科学のテリトリーが減少するのは当然であると考えます。
人文的文化の人は、人文的文化のテリトリーの減少を受け入れません。
そこで、科学技術基本法の改訂のように、「人文科学のみ」の価値を主張します。
マイクロソフト研究所のグレイは、データサイエンスのパラダイムの議論をしたかったので、経験科学の内容に深入りするつもりはありませんでした。
しかし、「人文科学のみ」の価値があるとすれば、人文科学は、経験科学の人文科学と、経験科学ではない人文科学に分けられます。
経験科学ではない人文科学には、「人文科学のみ」の価値があるかもしれませんが、それは科学でない以上、仮説と検証を含まないことになります。
人文的文化の人は、仮説と検証を含まない「人文科学のみ」は科学であると主張するのかも知れませんが、これは、検証による客観性の担保ができていないので、普通の用語では科学と呼ばれないものです。
2)「人文科学のみ」の価値
どうして、ここまで、回りくどい議論をするのかと言えば、筆者は、「人文科学のみ」の価値は、科学を無視した暴走を引き起こすと考えるからです。
雨を降らせるのに雨ごいをするのは、人文的文化です。
宗教法人が雨ごいをする権利は、法的に保証されています。
だからといって、気象庁が雨ごいして、他の業務を止めてしまえば、日本経済に、甚大な被害を及ぼします。
つまり、筆者は、官公庁は、科学的文化を無視して、人文的文化を使用する権利を有していないと考えます。
コロナ対策では、感染症の専門家がアドバイスをしました。政治家は、最後は科学ではなく政治判断だと主張します。
これは、一歩間違えば、科学的文化を無視して、人文的文化を使用することになりかねません。
財源制約がある場合、複数の事業のうち、どれを優先すべきかは、費用対効果分析でスコアを出します。各事業に、スコアがつきます。基本は、スコアの高い事業を優先することです。ただし、スコアの計算には、誤差がありますから、スコアの差が小さい場合には、実質的には、差がないと言えます。こうした差がない事業の中で、どれを優先するかについて、政治判断を行っても、その判断は、経済学と矛盾しません。しかし、スコアが10倍以上異なる事業を政治判断で逆転採択することは、経済学の無視になります。このような意思決定は、雨ごいと同じレベルの人文的文化になります。
常識的には、日本の政治で、科学的文化を無視して、人文的文化を使用する雨ごいレベルの意思決定がなされているはずはないのですが、疑問が残ります。
3)人文的文化の誤謬
2022年1月12日のDiamondに、野口悠紀雄氏は次のよう書いています。(筆者の要約)
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米連邦準備制度理事会(FRB)のスタッフは、潜在成長率の推計作業を行ない、それに基づいて、自然利子率を推計している。これが連邦公開市場委員会(FOMC)の金利操作の基準となっている。
日銀の政策は、自然利子率を無視していて、日銀が掲げる2%の物価上昇率目標と長期金利上限0.5%は、経済学的に矛盾している。
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つまり、日銀の政策は、科学的文化を無視して、人文的文化を使用する雨ごいレベルの政策になります。
1月12日には、日銀は、1日で過去最大額の4.6兆円の国債購入を行っています。
yahooのみんなの意見では、アクセルとブレーキを同時に踏まないで欲しいと、政策の一貫性のなさを批判する意見が出ています。
2022年1月12日の日経新聞の一面には、2012から2014年に総務省が行った「ICT街づくり推進事業」を評価した結果「ほぼ計画通り実用化」できた比率は14%にとどまっていたと分析しています。
これは、デジタルに始まったことではなく、過去のエネルギー問題の技術開発でも繰り返されています。お金をかけて、部品を購入して組み立てれば、デモンストレーションはできます。デモンストレーションには、技術的な価値はありません。
解くべき問題は何かを定めて、そのための戦略をねって、検証すべき仮説を組み立てて、仮説の検証のために、お金を使わないと成果がでません。
「ICT街づくり推進事業」に限りませんが、キーワードに合わせて、デモ機を作っても、なんの技術開発にもなりません。メタバースではありませんが、仮説の検証は、計算科学でもかなり可能です。必要なことは、優秀な人材が問題解決に時間を十分にかけられる処遇です。高度人材に、見合うだけの給与をはらって、雑用をさせないことです。
仮説と検証がなければ、技術は進みません。
岸田首相は10月の所信表明演説で、半導体政策について「日本だけで10年間で10兆円増が必要とも言われるこの分野に官民投資を集める」と発言しています。11月には最先端半導体の量産を目指す新会社「Rapidus(ラピダス)」に700億円の研究開発予算を出すことも明らかにしています。
これは人文的文化です。
ラピダスが成功するためには、逆転を可能にするシナリオが必要です。そのシナリオを実現するためのコアな技術課題を設定して、課題を解くことのできる高度人材を確保しないと99%は失敗になります。競合企業は毎日先に進みます。10兆円はこの分野では、決して大きな金額ではありません。少ない資金で逆転するには、戦略が不可欠です。一方では、リスキリングを唱えているだけで、高度人材に見合うだけの給与をはらいませんので、人材の流出がとまりません。つまり、競合企業とまともに戦える人材は、枯渇しています。エンジニア教育をないがしろしてきたツケが来ています。
日本の貿易収支は急速に悪化しています。
今までのように、「10年間で10兆円」などいう景気の良い話のできる時間は、あと数年です。国債の金利が上がれば、1、2年でアウトになるシナリオもあり得ます。
依然として、雨ごい文化から抜け出せないのでは、悲しくなりますが、その分岐点は、スノーの「二つの文化と科学革命」の指摘を都合の良いように曲解してきたところに始まっています。
引用文献
日銀の長期金利「上限0.5%」の曖昧な根拠、金融政策には科学的手法の導入が必要だ 2022/01/12 Diamond 野口悠紀雄
https://diamond.jp/articles/-/315905