二つの文化の断絶とは何か

(2つの文化の断絶のうち、最も影響が大きな違いは数学を真理として認めるか否かです)

 

1)わかり合えない断絶

 

スノーは、「二つの文化と科学革命」で、二つの文化には断絶があると指摘しました。

 

参考までに、山本和平氏の解説を要約すると次のようになります。

 

「我々が予想する展開は、断絶の和解の可能性、和解の実現方法の提示であろう。ところが、スノーは、本質論はおざなりにして、もっぱら『二つの文化』の対立という現象面を、対立を鮮明化するけれど固定化するように論を進める」

 

「スノーの意図は、極めて実際的,現実主義的な、科学技術振興の提言である」

 

つまり、人文的文化のパラダイムの人は、スノーが、「断絶の和解の可能性、和解の実現方法の提示」をするだろうと期待して、「二つの文化と科学革命」を読むのですが、その期待は裏切られて、「実際的,現実主義的な、科学技術振興の提言」しか書かれていない訳です。

 

繰り返しますが、このように、スノーは、断絶が埋められるとはいっていません。

 

断絶を埋める代わりに、「実際的、現実主義的な、科学技術振興」、つまり、エンジニア教育をしろといいます。

 

「二つの文化と科学革命」の前半は、「二つの文化」の断絶を指摘します。後半は、「科学革命」で、エンジニア教育です。

 

スノーの結論は、後半にあります。

 

山本和平氏はその点を正確に解釈しています。

 

山本和平氏は、「人文的文化の読者の我々が予想する展開は、断絶の和解の可能性、和解の実現方法の提示といった本質論である」といいます。

 

この人文的文化の本質論を目指した解読をスノーは拒否してます。

 

しかし、多くの人文的文化の読者は、「二つの文化と科学革命」は、「二つの文化」の断絶に関する本質論の入り口にある書物と評価しています。

 

スノーの考えている本質論は、科学的文化の本質論ですから、数学になります。科学的文化では、数学を排除した本質論はまがい物であると考えられます。これが、科学的文化の文法です。科学的文化の本質は、数式で表わされ、プログラムにコーディングされ、コンピュータが計算して、答えを出してくれるものです。

 

科学的文化では、真理、正義、善、神などは、本質とは考えません。スノーはそのような領域を否定してはいませんが、和解の実現を考えません。

 

真理などの本質がわかっても、モノやサービスをつくる経済活動には、ほとんど影響しません。本質的な真理の理解が、コンピュータプログラムで動くロボットのかわりに、自動車を生産してくれる訳ではありません。

 

2)データサイエンス革命

 

科学的文化の本質論は、1959年には、数学であったと思われます。

 

数学を広い意味で考えれば、図式などの記号を使った論理です。

 

ここでのポイントは、思考に言葉以外のツールを使うことで、脳の限界を越えている点にあります。

 

この脳の限界を超えるという意味では、コンピュータの利用は、数学の正統な発展です。

 

現在は、コンピュータとクラウドが簡単に利用できるようになりましたので、数学の中でも、アルゴリズムの比率が高くなっています。

 

また、アルゴリズムを実装するエコシステムを設計するためには、アーキテクチャの理解が必要です。

 

3)専門数学教育の欠陥

 

ところで、人文的文化と科学的文化、あるいは、人文科学と自然科学の違いはなんでしょうか。

 

自然科学には、仮説と検証を中心とした分野ごとに異なる文法が存在します。

 

クーンのパラダイムとは、時代によって、この文法ルールが大きく改訂される場合をさすと理解することもできます。

 

クーンは、人文科学には、パラダイムは見当たらないといっていますが、これは、明確な文法を持たないという意味だと思われます。

 

マイクロソフトのグレイの区分にしたがえば、「人文科学=経験科学」という区分も成り立ちます。この場合、グレイは、「人文科学=経験科学」を明確な文法を持たないその他の分野を一括してさしたと解釈すれば、クーンの解釈とは矛盾しません。

 

人文科学と自然科学の違いを明確に書いた文献は見つかりませんでした。

 

自然科学にあって、人文科学にない要素は容易に見つかります。

 

エビデンス、検証、数学は、自然科学にはありますが、人文科学には少ないです。

 

特に、数学は、殆ど含まれていません。

 

逆に、人文科学にあって、自然科学にないものはあるでしょうか。

 

これを、見つけることは困難です。

 

理由は、例を考えればわかります。

 

ニュートン力学は、出版当時は、自然哲学でした。

 

つまり、人文科学は、数学も、物理学も含んでいました。

 

その後、人文科学と自然科学が分離します。

 

図式で書けば、次になります。

 

旧人文科学=現人文科学+自然科学

 

あるいは、

 

現人文科学=旧人文科学ー自然科学

 

現人文科学は、旧人文科学から、自然科学の数式にのらない部分を引いた残りに見えます。

 

自然科学の分野は、ニュートンの物理学から始まって、対象を拡大していきます。

 

今世紀のデータサイエンス革命によって、自然科学の数式にのらない部分はほぼゼロになってしまいました。

 

人文科学が自然科学と独立して存在できるとは思えません。

 

例えば、筆者には、真理や善を、脳科学を無視して論じても無駄に見えてしまいます。

 

Aさんの頭の中にある真理と、Bさんの頭の中にある真理が同じものをさしている保証はありません。もし、同じものを指しているのであれば、脳科学の実験でエビデンスをとって、確かめることができるはずです。

 

筆者は、チワワを飼っているので、犬と言えば、チワワを思い浮かべます。

 

筆者が、チワワではなく、柴犬を飼っていれば、犬と言えば、柴犬を思い浮かべると思います。

 

実在するモノとの対応が明確な犬ですら、この程度の違いがありますから、実在するモノがない真理では、共通概念の形成が簡単に可能とはとても思えません。

 

こうして考えていくと、数学を拒否しているだけが、人文科学という学問分野の自然科学との相違点であって、独立して学問分野になりうるのか、疑問が生じます。

 

難波美和子氏は、「『人文学』とは、まず教育制度のなかの分類様式であり、考える枠組みである」といいます。

 

つまり、教育制度の枠組みを外してしまうと、人文科学という分類は、かなり曖昧になるといいます。

 

この点を理解すると、スノーが、エンジニア教育を問題にしたことは、唐突ではなくなります。スノーは、「人文的文化と科学的文化」の2つの文化の問題を、学問の対立の問題ではなく、教育制度の問題として把握していた可能性があります。

 

スノーは、「教育制度に数学を取り入れて、エンジニアを養成しないと、英国の経済は持たないし、科学技術立国はできないと主張」しましたが、スノーが関心のあった対立は、学問ではなく、教育制度であったと言えます。

 

4)まとめ

 

スノーの主張は明確です。

 

「数学を入れたエンジニア教育を充実させなければ、国は経済的に滅びる」

 

義務教育における数学のレベルの落ち込みは大きいです。

 

スノーの言い方では、文系の教育では、国の経済が発展しません。

 

これは、学問ではなく教育制度の問題です。

 

スノーが重点を置いた数学とは、エンジニア教育のための数学です。

 

現実の現象を数学でモデル化して、正解を求める能力です。

 

パターン認識で解ける計算問題ではありません。

 

2020年6月に、「人文科学のみに係わる科学技術」及び「イノベーションの創出」を「科学技術基本法」の振興の対象に加えるとともに、科学技術・イノベーション創出の振興方針として、分野特性への配慮、あらゆる分野の知見を用いた社会課題への対応といった事項を追加する「科学技術基本法等の一部を改正する法律」が成立しました。

 

これは、スノーの主張とは相いれません。

 

「人文科学のみに係わる科学技術」とは数学を使わない技術ですから、エンジニアとは無縁です。

マイクロソフトのグレイは、人文科学を経験科学の一部に分類していますが、「人文科学のみに係わる科学技術」ではありません。

 

スノー、クーン、グレイの議論を無視して、「人文科学のみに係わる科学技術」を発明しても、国際的には通用しないと思います。

 

「あらゆる分野の知見を用いる」方法は、今のところ、データサイエンスしかありません。その理由は簡単で、人間の脳のメモリーの制約から、人間が、「あらゆる分野の知見を用いる」ことは不可能なので、コンピュータの助けを借りなければ、「あらゆる分野の知見を用いる」ために、前に進めないからです。これは、データサイエンスや脳科学の常識だと思います。

 

2020年6月に、日本で起こったような、人文科学教育の振興を進める政治勢力は、1959年の英国にもありました。スノーは、その選択は、エンジニア養成をないがしろにして、科学技術立国を遠ざけ、英国を貧しくするとして退けています。

 

人文科学的文化の人は、「二つの文化と科学革命」を、二つの文化の断絶を埋めるための提案をした記念な著書とみなすでしょう。

 

科学的文化の人は、「二つの文化と科学革命」は、エンジニア教育の重要性を提案した書籍として読むはずです。

 

「人文科学のみに係わる科学技術」が数学を使わない科学(?)技術であって、全微分偏微分を区別しない科学技術であれば、一緒に仕事をしたいエンジニアは皆無と思われます。



引用文献

 

  二つの文化論争  山本和平 一橋論叢 第五十六巻 第一号

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/2852/ronso0560100210.pdf

 

『二つの文化と科学革命』キーワード解説集

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/82449

 

Humanities= 人文学、Astronomy =天文学?―人文学を捉えなおす― 難波美和子

https://www.pu-kumamoto.ac.jp/users_site/tosho/file/pdf/kbs/11/1106.pdf



科学技術基本法の見直しの方向性について

https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/seidokadai/4kai/sanko2.pdf