アーキテクチャ(27)

理解と誤解の狭間

 

(理解を確認する方法は、基本的で重要な課題です)

 

1)理解できたこと

 

理解の判断は難しい問題です。

 

Aさんが、カントを読んで理解できたと感じたとします。

 

次に、Bさんが、カントを読んで理解できたと感じたとします。

 

この2つの理解できたという感触は同じものでしょうか。それとも異なっているのでしょうか。

 

しかし、ソーカルの「思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用している」と、スノーの「賢明な人びとの多くは物理学にたいしていわば新石器時代の祖先なみの洞察しかもっていない」という指摘を考えるとき、この疑問は重要です。

 

スノーもソーカルも、数学や物理学の用語を正しく理解していないことを指摘しています。

 

ソーカルは、数学や物理学の用語を混ぜこぜにした、わけのわからない論文を捏造しました。この論文は、明らかに間違いかナンセンスですが、雑誌に掲載されました。

 

ソーカルは、思想家のカント理解をテストした訳ではありません。

しかし、数学や物理学の用語を正しく理解していない論文がOKだったことは、カントを正しく理解していない論文もOKになるリスクがあることを示しています。

 

つまり、理解できたことがどうして確認できるのかという疑問があります。

 

試験問題であれば、正解を暗記して、答案用紙にコピーすれば、合格します。

 

答案用紙に同じ文字が並んでいれて、1番目の答案は、自分で理解できたと感じているAさんが書き、2番目の答案は、内容はわからないが、模範解答を丸暗記したCさんが書いたとします。

 

採点者は、人間でも、AIでも、並んでいる文字が同じなら、同じ点数をつけます。

文字列は全く同じだが、Aさんは内容を理解しているので、優で、Cさんは内容を理解していないので不可という採点はありません。

 

丸暗記に失敗してしまうと、Cさんの点数は下がりますが、その時の判定基準は、第1に記憶力であり、第2は、日本語の作文能力です。

 

2)計算科学の世界

 

数学や物理学で、理解できているかいないかの判定が可能である理由は、計算問題にあります。

 

計算問題以外では、理解の検証は容易ではありません。

 

 数学の超難問「ABC予想」を証明したとする京都大数理解析研究所望月新一教授の論文は、正しいのか、間違っているのか、未だに意見が分かれています。

 

計算問題を解けば理解が確認できるのは確かですが、ワークブックがあるのは、大学の学部までです。実は、その先は、専門が分化していて、ワークブックはありません。

 

これは、同じ講座で、お互いに計算問題の出し合いができるクラスメートがいる場合を除けば、理解の確認が困難な状況です。自習するのは、難しいのです。

 

1980年代にこの状況が大きく変化します。

 

計算科学の登場です。

 

数値計算に持ち込むことで、理解の確認ができるようになりました。

 

つまり、「理解できたことがどうして確認できるのかという疑問」は40年前までは、実は、数学や、物理学でもありました。

 

筆者は、その変化に立ち会った世代なので、「理解できたことがどうして確認できるのかという疑問」は本質的な疑問であると考えます。

 

筆者の理解不足かも知れませんが、現時点では、人文科学では、計算科学に代わるような、理解を確実にチェックする手法はなく、また、内容を理解しない丸暗記を回避する手法が、教育に導入されたとも聞きません。

 

人文科学の理解が計算問題を解くことではなく、同じ内容を、別の表現で言い換えることであれば、今後のAI(ニューラルネット)がツールになるのかも知れません。