1.15 システム2のディストレーニングー2030年のヒストリアンとビジョナリスト(新15)

(前例主義の組織では、システム2を学習させないディストレーニングが行われます)

 

問題が発生して、ともかく、早急に答えを出す必要がある場合には、脳は、ヒューリスティックをつかったシステム1に、頼るしか方法がありません。

 

しかし、システム1は、部分的にしか正しくないか、全く的外れで、システム1を使わないで、ランダムに決めた方法と大差がないこともあります。

 

システム1を使った意思決定の有効性の判定には、エビデンスをとって、予測結果と比較して、フィードバックをかける必要があります。

 

1)政府公開データの課題

 

2022/03/20の日経新聞の第1面には、「政府公開データ開店休業」というタイトルで、データ公開が進んでいないことが述べられています。

 

公開されているデータの、PDFの画像データで、コード化されていない場合も多いです。



新聞が問題視しているのはデータの非公開ですが、問題点は、より根が深いところにあります。

 

1)非公開データは、エラーがあって、99%は、そのままでは利用できません。データは、デジタル化され、クロスチェックをかけることで、エラーが減ります。手書きのデータは、イメージデータとしてPDF化されていても、全く使えません。データを使えないということは、政策を評価して、修正するフィードバックが働いていないか、その必要が感じられていないということです。

 

2)より大きな問題は、公開、非公開の前に、必要なデータが収集分析されていない点にあります。

 

例えば、水産業では、漁獲量の減少が常に問題になります。しかし、データは、漁獲量だけで、漁獲努力量や資源量のデータはありません。釣り堀の漁獲量は、釣竿の本数に依存するように、一般に、次の関係があります。

 

漁獲量 = 漁獲努力量 X 資源量

 

ここで、漁獲努力量と資源量が分れば、資源保全に必要なレベルの漁獲努力量を推定できます。

 

漁獲努力量は計測できますが、資源量は、直接計測できないので、推定する必要があります。この2つのデータが、非公開である可能性も否定できませんが、実際には、一部の例外を除いて、計測または、推測されていない可能性の方が高いと思われます。

 

漁業政策の評価をするのであれば、この2つは必須のデータです。

 

これは、水産行政が特殊なのではなく、政策評価に使えるデータが計測され、公開されているかに注目すれば、他の部署でも、類似の事例は多数見つかります。

 

最近では、こうしたエビデンスデータが、取得されていない状態で、政策(事業)評価をするという不思議な状態になってしまいました。中央官庁は、事業評価のガイドラインをつくり、国の事業や、県の補助事業では、このガイドラインが使われます。エビデンスデータがないので、本当の事業評価はできないのですが、それでは通らないので、アンケートが多用されています。しかし、お金をばら撒いて、アンケートをすれば、よほどのことがない限り、事業は有効であったという答えが得られます。

 

2)前例主義の問題点

 

前書きが長くなりましたが、ここで、本題に戻ります。

 

政策(事業)には、間違いがないという無謬主義が使われているといわれています。

 

しかし、無謬の主張はナンセンスだと思われます。

 

この説明は、建築基準法に従って、建築された建物であるから、無謬であると同じロジックです。

 

家を購入する場合に、建築基準法に適合していることはもちろんですが、それだけではなく、デザインの良い、住みやすそうな家が選ばれます。なおかつ、過去のデザインの焼きなおしではなく、それなりの改良が加えられていないと売れません。

 

つまり、過去に実績のある設計というヒストリーだけでは、買い手は付かず、それに、新しいビジョンを付け加えないと売れません。

 

ところが、無謬主義も度が過ぎると、過去の優良事例(ヒストリー)のコピーに終始してしまいます。

 

なお、ヒストリーにも変動があります。自動車のデザインは、丸くなるか、角を強調するしかないので、周期的にこの2つの間を変動するといわれています。無謬主義でも、この程度の過去の事例の変動は採用されますが、それを越えた進歩や改善を目指すビジョンは出てきません。

 

過去の事例のコピーが、進歩や改善を目指すビジョンより良いとはいえませんが、事例のコピーであれば、不具合が生じても責任を問われることはないと考えられています。

 

これは、論理的には、全く根拠のない主張ですが、無謬主義とは、そのようなものです。

 

ここに大きな問題が生じます。

 

問題解決を図るには、システム2の能力を高める必要があります。それには、時としては、システム1を封印して、時間をかけてシステム2を使う必要があります。

 

しかし、実際に起こっていることは、真逆の世界です。

 

無謬主義では、前例のないシステム2の提案は、排除されます。また、そもそも、問題を放置して、お尻に火がついてから、解決方法を探すことも多くあります。この場合には、上級者がいても、時間不足で、システム2が使えません。

 

つまり、本来であれば、問題解決ができるように、システム2のトレーニングをすべきステージで、システム2を封印するディストレーニングが、行われています。

 

こうして、システム2を全く使えない人材が組織内に養成されています。

 

システム2が使えない人材は、全てをシステム1でこなすことしかできません。

 

この人材は、新しい問題については、誰かが、解決方法を提案して、解決方法の1つが、ヒストリーになって時点で、それをコピーして使うことは出来ますが、独自に、率先して、新しい解決方法を作りだすことは出来ません。

 

この条件が当てはまる事例は、あまりに多いです。独自に、率先して、新しい解決方法を作り出している例は、ほとんど見かけなくなりました。

 

新しい事業展開が出来ない企業の問題の原因が、もしも、ディストレーニングによる脳の障害に由来するのであれば、解決は、脳トレから行う必要があります。しかし、長期間ディストレーニングを受けてきた年寄には、脳トレの効果は期待できないでしょう。

 

ディストレーニングが、脳レベルで、組織を壊しているという仮説(ディストレーニング仮説)は、あまりに。恐ろしい仮説です。しかし、この仮説を基に、現在起こっていることを見ると、納得できる事例が非常に多いことも事実です。