タテ社会のヒストリアン~2030年のヒストリアンとビジョナリスト(17)

日経新聞に、中根千枝『タテ社会の人間関係─単一社会の理論』 (講談社現代新書 1967)を取りあげた人がいます。

 

それを見て、筆者は、考え込んでしまいました。

 

中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」では、社会集団の構成要因として「資格」と「場」をあげます。

 

資格 職業、血縁、身分などの資格によって集団が構成される。

地域、会社などの一定の枠によって集団が構成される。

 

中根氏は、日本は社会では「場」への所属が自己の存在を確認する拠り所になっていると 主張します。組織の中では、同一資格保持者であっても、上下の差が設定される ことで序列が形成される。その意味でタテ社会だと主張します。

 

 経済問題メーリングリストには、議論がのっていますが、筆者には、そこで、「資格」と「場」ありきで、議論がスタートされていることが信じられません。

 

ヒストリアンとして、 1967年頃の日本の会社組織で、「資格」と「場」が、強い要素であったことは理解できます。しかし、そのことは、他の要素を妨げるものではありません。

 

例えば、ワールドカップで、勝てるようなサッカーチームを作ろうとしたら、「資格」と「場」でチームを作ってはいけません。サッカーの「実力」で、選手を選抜しなければ、勝てません。

 

サッカーと同じように、日本の企業が、世界の企業と競争して生き残ろうとすれば、「実力」という要素を抜きにして、組織を論ずることはできません。

 

「組織の中では、同一資格保持者であっても、上下の差が設定される ことで序列が形成される」のは変です。同じ、医師や弁護士の資格保持者でも、所得の差は、実力の差を反映するのが合理的です。年功序列のように、上下の差を設定すれば、努力しなくなりますので、チームの実力があがりません。その結果、労働生産性は上がらず、経済成長も停滞します。また、一旦、資格を取れば、そのあとの努力が報われないのが当然と考えることも、尋常ではありません。

 

中根氏が、1967年に、そのような固定的な秩序、つまり、年功型賃金体系が主流であったと主張したこと、実力よりも資格が重視されるという事実を確認したことは、卓見だったかもしれません。

 

しかし、これらのルールは人間がつくったもの(オブジェクト・アーティフィッシャル)ですので、いくらでも変更が利きます。今までのルールが、不合理であれば、変更すればよいだけです。

 

ところが、経済問題メーリングリストの議論を見ると、どうして「タテ社会」のルールが形成されたのかという点に、討議の中心があるように見えます。つまり、「タテ社会」のルールに、必然性があるというヒストリアンから、全く抜け出せないのです。

 

「資格」と「場」でつくった野球チームは、草野球チームです。草野球チームは、大リーグのチームとは勝負できません。

 

こう考えると、日本の失われた30年は、1967年には、スイッチが入っていたことになります。

 

日本はタテ社会か、それはなぜか? 経済問題メーリングリスト

http://web.econ.keio.ac.jp/staff/tets/ml/kakusa/tate.html