日本の食の貧しさ~2030年のヒストリアンとビジョナリスト(4)

家庭で、カレーを作る時には、カレールーを使っている人も多いと思います。あるいは、シチューをつくる時にも、ルーを使っている人も多いと思います。

 

シチーがわかりやすいので、例に取り上げます。

 

シチューには、ビーフシチュー、クリーム(チキン)シチューがあります。

成分表示を見れば、わかりますが、ビーフシチューが、ビーフを、クリームシチューが、チキンを使ってだしをとっている訳ではありません。どちらにも、チキンエキスとたんぱく加水分解物が入っています。

 

つまり、ビーフシチューのルーは、まがいものです。

ビーフシチューの場合には、ルーは使わずに、缶詰のデミグラソースを使うという選択ができますので、まがい物は避けることができます。しかし、こうした選択が可能なケースは稀です。

 

ハムやソーセージの場合には、多量の添加物が付け加えられています。添加物のないハムやソーセージを選ぶのは容易ではありません。

 

こうした実態をもとに、添加物のない食事をつくる本を書いている人もいます。

しかし、その姿勢は、現在の食品添加物のルールは変えられないという前提で、対処方針を提案している訳です。この「現在の食品添加物のルールは変えられないという前提」は、ヒストリアンの立場です。

 

何が問題かというと、「現在の食品添加物のルール」は、日本が発展途上国の時に出来たにもかかわらず、ルールが、変わっていない、変えられないところに問題の根源があります。

 

食事の中心は、1960年代は、米を中心とした和食で、庶民が、外食する場合のメニューは、カレーライスやラーメン、とんかつといったものでした。ハムやソーセージは、毎日食べるようなものではなかったのです。

 

それが、1980年代になると、一人当たりGDPが高くなり、洋食は贅沢ではなくなりました。社会の状況に合わせて、ルールを見直すべきでした。例えば、イタリアでは、ハムは、食肉と塩だけでつくります。これが、伝統的な、ハムという食品です。日本が、豊かになったのですから、ルールをイタリア並みに変えるべきでした。

 

その視点で見ると、あり得ない選択肢は、発泡酒と第3のビールです。ビールの酒税が高かったのは、ビールが高価で、富裕層しか飲めなかった時代の名残です。所得が上がり、庶民が毎日ビールを飲めるようになったら、高い酒税を続ける合理的な理由はありません。

ビールの酒税を引き下げて、ビール会社は、より美味しいビールをつくることに専念すればよかったのです。こうした現行ルールの変更は、ヒストリアンではできません。ビジョナリストが、必要です。

 

しかし、過去の60年の歴史をみれば、ヒストリアンが、ビジョナリストを追放してきた歴史です。その結果、日本の食は、まがいものだらけの貧しい食になっています。

 

スーパーに行って、蕎麦をみると、売り場の半分以上は、そば粉より、小麦粉の多い蕎麦です。蕎麦色のうどんのような製品が並んでいます。

 

こうして、1960年代の貧しい時代のルールを変えずに60年たちました。日本は、最近、30年は経済成長が止まり、また、貧しい国に、逆戻りしています。いまや、コストをかけて、豊かな食を選択する経済余力は、なくなりつつあります。

 

風景写真を撮りながら、観光のことを考えています。それは、最強の風景写真は、観光写真だからです。大きな観光資源は、風景、自然、食事、文化です。これが豊かで、美しければ、良い写真が撮れます。

 

ここでは、1960年代のルールを固定化したヒストリアンが、ビジョナリストを追放したことが、食の貧しさから抜けだすチャンスを失した原因であると申し上げました。同じことは、残る3つの風景、自然、文化にも、当てはまると思います。具体例は、別の機会に述べましょう。