カーネマンの「ノイズ」を読む(1)「ファスト アンド スロー」再考

カーネマンの「ノイズ」は、前著の「ファスト アンド スロー」以上に、複雑で、見かけの読みやすさと解読の難しさが併存しています。そこで、解読作業をしてみようと思います。

そのスタートの前に、今回は、準備体操として、前著「ファスト アンド スロー」を読むことの難しさを取り上げます。

2021年12月28日の日経新聞のオピニオンは、2021年に起こったイノベーションを論じ、イノベーションの共通項は「あるべき未来や境地に想像を巡らせての『演繹法的な発想と実践』と言える。イノベーションを阻害するクリスチャンのイノベーションのジレンマを防ぐには、演繹法帰納法に通じる必要がある」としています。

このようなイノベーション現象の理解は、広く行われていますが、「ファスト アンド スロー」以前であれば、やむをえないですが、「ファスト アンド スロー」以降の世界では、もう少し、認知バイアスに配慮して欲しいと思います。

クリスチャンは、次の2つを比較しました。 1)現在売れ筋の製品を改善して販売し続ける。トヨタであれば、エンジン自動車や、ハイブリッド自動車を販売する。

2)現在の売れ筋製品を横において、イノベーションによる新製品を開発して販売する。トヨタ自動車であれば、EVになります。水素自動車は、エンジン自動車なので、イノベーションになりません。

1)で利益が上がっている場合には、2)へのシフトが遅れて、企業の経営が傾くことを、クリスチャンセンは、イノベーションのジレンマと呼びました。(注1)

「ファスト アンド スロー」の世界観では、2つ経営戦略の認知システムは次になります。

1)現在売れ筋の製品を改善して販売し続ける。これは、システム1(ファストシステム)によるヒューリスティック中心の経営戦略です。

2)現在の売れ筋製品を横において、イノベーションによる新製品を開発して販売する。これは、システム2(スローシステム)による経営戦略です。

データサイエンスの視点

自然科学に対する誤解だと思うのですが、今まで、次のような手順に対する理解が多くなされています。

  1. データを集めて、機能的にルールを求める。

  2. そのルールを使って演繹する。

データサイエンスでは、この手順が適用可能な範囲は、ビッグデータを集めて、コンピュータがデータマイニングする場合だけです。 一般的には、次の手順が必要です。

  1. 仮説を立てる

  2. 仮説を検証データを集める(実験計画)

  3. 集めたデータを解析する

帰納ー>演繹」という古い教科書に書かれた手順は、効果があるというエビデンスはなく、否定されています。効果がないのは、サンプリングに問題があるデータは使えないことに起因しています。ですから、帰納が全ての基本であるという考えは、捨てるべきです。

「ファスト アンド スロー」の視点

「ファスト アンド スロー」は、ファストシステムとスローシステムの違いを明らかにしました。この2つのシステムは、脳の使う部分が違います。結論を出すまでの処理時間も1桁違います。スローシステムでは、時間がかかりすぎるため、人間は進化の過程で、ファストシステムを多用するようになりました。

実際、今までは、スローシステムで、アイデアをだしても、それは、アイデア倒れに止まり、実装されることはほとんどありませんでした。ですから、進化の過程で、ファストシステムが優先されたことは、合理的でした。

この状況が崩れて、スローシステムの価値が劇的に上がったのは、IT革命以降です。

ファブレスのICメーカーは、設計図(アイデア、演繹)だけで、巨額の利益を生み出します。

これをみて、オピニオンは、「演繹法的な発想と実践」に価値があり、「演繹法帰納法に通じる必要がある」という訳です。

しかし、演繹法であるスローシステムは、帰納法とは別の脳の部分を使います。 これは、進化の上では、非常に特異な脳の使い方です。「ファスト アンド スロー」の世界でいえば、スローシステムは、ファストシステムを禁止しなければ、活動できません。それは、スローシステムは、効率が徹底して悪いからです。

ファブレスのICメーカーは、設計図をかきます。最終的にできる設計図は1枚です。しかし、その前に、比較検討して廃棄した設計図が山のようにあるはずです。この無駄を許容できなければ、スローシステムは働きません。 囲碁や将棋のプロが、指し手を決める前に、複数の選択肢を考えて比較検討します。一見すると非常なむだですが、その無駄がないと、スローシステムは機能しません。

試験勉強をするときに、考えて納得する時間がないので、取り敢えず、正解を暗記して、試験対策をすると、ファストシステム全開になります。この場合には、スローシステムは停止していますから、理解は進んでいません。期末試験をすることは、スローシステムを使う点では、マイナスで、中止すべきです。

学習内容で、読んですぐに分かる部分は、重要ではありません。分からない部分にじっくり時間をかけて、理解を進めることがスローシステムを鍛える上では、一番重要です。ところが、講義では、わからないところでもどんどん先に進んでいしまいます。

実際にこうしてチェックしてみると、スローシステムをないがしろにしてきたことが分かります。 ですから、「演繹法帰納法」の双方に通じることはできません。

クリスチャンセンは、ジレンマと言いましたが、「ファスト アンド スロー」の世界では、スローシステムを活用できないのは、最も、一般的な認知バイアスにすぎません。

スロー回路を使うとは、ある意味では、非常識な頭の使い方です。

GAFAがオフィスをクリエイティブにしている理由は、スローシステムを使うために必須の条件だからです。逆に、霞が関のように、短時間中に締め切りをもうけたり、過去の前例を参考に付けるようにすれば、ファストシステム全開になり、スローシステムが停止します。官僚の前例主義は、スローシステムを壊滅させる条件です。

まとめますと、「ファスト アンド スロー」は、ファストシステムと、スローシステムは両立できないことを示唆しています。多くの人は、ファストシステムの世界にどっぷり浸かっています。そして、ファストシステムの中に、スローシステムの島を作ることができるような幻影を抱いています。しかし、「ファスト アンド スロー」を虚心に読めば、それは、不可能なことが分かるはずです。

筆者は、「2025年の大阪・関西万博は、新技術が空き箱かも知れない」で、各省庁が取り組む「アクションプラン」の案の新規性には、疑問符が付くと申し上げました。それは、官僚がさぼっているという意味ではありません。「ファスト アンド スロー」によれば、ファストシステム全開の官僚組織から、スローシステムを使ったアイデアが出てこないのは当然です。これは、予想通りなのです。問題は、その自覚があるかという点につきます。

注1: この仮説は、そのままでは、検証可能ではないので、正しいかわかりません。データサイエンスでは、検証可能な形に書き換えることを要求しますが、ここでは、通説に従って論を進めます。