沼尻墨僊の塾の跡(土浦市)~つくば市とその周辺の風景写真案内(462)

沼尻墨僊の塾の跡(土浦市

沼尻墨僊の塾というのは、寺子屋のことです。

藩校が、公立であれば、寺子屋は私立になります。

市立博物館の「霞」に青木光行(元土浦市史編さん委員)さんは次のように書いています。


塾「天章堂」と沼尻墨僊について

「天章堂」(てんしょうどう)は、近世土浦の人沼尻墨僊が、寛政の頃に開いたといわれる寺子屋であり私塾でもある教育機関です。子の墨潭に受け継がれ、土浦小学校が創設されるまで、土浦を代表する庶民の学校でした。墨僊は幼少より慧敏穎悟(才知がすぐれてかしこいこと)といわれ、その人となりについては、「性温厚篤実、居常寡黙にして、才能を誇らず、来り学ぶものあらば、諄々じゅんじゅん(ねんごろに教えるさま)としてこれを教へ、必ず二回ずつ反覆するを常とした」(乙竹岩造著『日本庶民教育史』中巻)とあり、遠近の子弟、その風を慕って入門者多数、盛況を極めたとあります。また「町方子供筆学世話」と孝養を以て藩の褒賞を受けること三度、「慈厚殆仏の如く、母に仕えて至孝、郷党の典型として敬慕された」(香草生著「市隠の科学者沼尻墨僊翁」)とあります。墨僊は八十余年の生涯を「市隠の一布衣(庶民)」として過ごしています。没後、土浦藩士山村才助とともに地理学の先覚者として評価され、土浦小学校編纂『土浦郷土読本』にもその業績が紹介されています。しかし、近世土浦を代表する偉大な人物にもかかわらず、その生涯や業績、「天章堂」の教育について、ほんの一部を知るのみです。墨僊の生涯や交遊、塾の教育、地理学、天文暦学や科学、書道、絵画、漢詩文、和歌俳諧文学など、あらゆる分野の史料の発掘蒐集、調査研究が待たれます。


写真1が、寺子屋跡の案内板です。残念ながら、今あるものは、この案内板にある情報だけのようです。

写真2は、退筆塚の碑です。この碑は、文久2(1862)年、墨僊の七回忌に門弟たちによって学徳を偲んで建てられたそうです。「退筆」とは、長年使用して穂先が擦り切れた筆を指します。碑は関雪江の書いたものです。

国立公文書館のHPで、「雪江先生貼雑」の一部を見ることができます。

解説は以下です。


「雪江先生貼雑」は、土浦藩に仕える書家の関雪江(せきせっこう 1827-77)の手元にあった書画会(文人や画家が料理茶屋などの会場で書画を揮毫し即売するイベント)の案内状や各種引き札(広告の刷り物)、詩暦(その年の月の大小を巧みに読み込んだ漢詩)など450点余を紙に貼って綴じたもの。嘉永2年(1849)から安政4年(1857)まで、開国前後の江戸で、漢詩や書画が知的遊戯として享受され、文人たちの書画会があたかもディナーショーのように興行されていた様子がうかがえます。全13冊。


写真3には、退筆塚の碑と、その後に、文書蔵があります。

文書蔵は、もちろん、寺子屋とは関係がありませんが、この辺りにあったのだと思うと、連想が働きます。

なお、写真3には、喫茶「蔵」の看板があります。この看板は、文書蔵ではなく、その奥にあるレンガ蔵にある喫茶店をさしています。

 

  • 霞 平成21年1月5日発行(通巻第6号)

https://www.city.tsuchiura.lg.jp/data/doc/1244272084_doc_44.pdf

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/bakumatsu/contents/36.html

 

 

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写真1 沼尻墨僊の塾の跡(案内板)

 

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写真2 退筆塚の碑

 

 

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写真3 文書蔵

 

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