文章作法の変遷

最近のネットでは、小説募集サイトが数多くあります。今、書いているようなブログで、アクセス数が多い記事は、「これを読めば〇〇ができる」といった問題解決型の記事を書くブログです。小説サイトが増えているためか、「これを読めば、誰でも小説が書ける」といった記事も多く見られます。今回の記事のタイトルは「文章作法の変遷」ですが、このタイトルでは、アクセス数が稼げないので、「誰でも良い文章が書ける方法」とか、「簡単にいい文章が書けるコツ」とか、「これを読めば、誰でも、簡単に名文が書ける」といったタイトルにしなさい、といったお薦めをしているサイトもあります。あるいは、ブログのタイトルは、検索にかかるので、「いい文章」とか、「名文」といった検索に使われるキーワードを意識して入れなさい、という注意をしているサイトもあります。

しかし、「これを読めば、誰でも小説が書ける」といった記事を書いている人の多くは、どのレベルの小説を実際に書いているかは不明なので、ノウハウがあてにならない可能性も高いです。

あてになるのは、過去の名作だと考えて、青空文庫を覗いて見ました。

しかし、青空文庫に載っている作品を読み直してみると時代の変化を感じます。明治大正はパスして、昭和で考えると、太宰治は当時のベストセラー作家でした。実際に、国語の教科書に、作品が載っていたこともあります。しかし、今読んでみると、太宰の作品は、非常に、感情過多に思われました。最近は、ここまで、感情表現を多用する作家は少ないと思います。時代によって、文章表現の標準が変化していると感じます。

ストーリーを書くときに、最初にプロットを作ります。これは、書いている途中で、何を書くつもりだったのかがわからなくなり、迷子にならないためです。例えば、AがBに会うといった書き方です。この場合、最初の段階では、どこで、いつ会うかは、あいまいです。あいまいというのは、前後のプロットにあわせて、調整する方が、わかりやすいストーリーになるからです。つまり、最初のプロットは、徹底したハードボイルドになります。この段階では、感情表現は、弱いイメージとして、頭の中にある程度です。

次に、プロットを見ながら、場面を展開していきます。実際の会話を書き込みます。ここで、問題が生じます。従来の文章作法では、プロットは覚書なので、場面が出来上がった時点で、削除するのが原則です。ところが、最近のWEBの文章作法では、読者が迷子にならないように、重要な部分はできるだけ繰り返して書きなさいというお薦めがあります。この方式ですと、まず、プロットをつくり、プロットの前に場面を展開して、そのあとプロットは復習用に残しておくべきだということになります。たしかに、WEBで読む場合には、前のページに戻って確認することは手間なので、あまりしません。読者は、ひたすら先に進むので、復習部分を入れるべきだという訳です。

というわけで、青空文庫の作品はあまり参考にならないことがわかりました。文章作法も時代によって大きく変遷しているという話でした。