小説の力

ここのところ、データサイエンスの記事の文字数が減っています。これは、さぼっている訳ではなく、小説を書いているので、そちらに、時間を割かれているためです。

このデータサイエンスで書いているような、エッセイスタイルには、良い点も多くあります。特に、構成を気にせずに、毎回、読み切りで書くことができることは魅力です。小説では、構成を考えないと様になりません。読んで面白いのは、主人公が、毎回、ピンチになって、それを克服していくという構成ですが、これを作るのは、容易ではありません。昔の欧米の小説では、お約束があって、最初の30ページくらいは、登場人物の説明と小説の舞台の説明に費やされることが多くありました。こうした場合には、最初の30ページは、飛ばして読んで、後で戻る方が読みやすいという荒業もありました。もちろん、現在の、特に、英語圏の小説は、非常に、進化していて、1ページ目から、読者をひきつけるように設計されています。

100年くらい前の小説家は、例えば、トルストイのように、極めて偉く、影響力がありました。これは、小説以外の娯楽であるオペラや劇が演じられるのは都市部に限定され、田舎では、小説が唯一の文化的な娯楽であったためです。その後、映画の影響が大きくなり、小説家の地位が下がります。それでも、テレビが本格的に普及するまでは、岩盤の支持層がいました。出版社が、文学全集を出して、それが売れるというビジネスが成立していました。現在では、ネットで、動画を見ることができますし、カラー写真の画像があふれていますので、文字だけの小説ビジネスは難しくなっています。WEBのニュースや解説記事でも写真がゼロの記事は少なくなっています。そんな状況なので、最近まで、小説の力は、小さくなったと思っていました。

しかし、この考えには問題があることに気づきました。

例えば、写真を掲載している洪水調整池に、環境配慮が不十分なものが多く見られます。そこで、エッセイであれば、「ここに、環境配慮が不足している」と書くことになります。この文章を読んで、気分が良くなる人は少なく、なんとなく、不安を感じるのが普通です。楽しい話ではありませんから。

これをSF風の小説に仕立てますと、主人公が環境配慮不足という悪者を見つけます。次に、主人公は努力をして、悪者をやっつけて、めでたく、良い環境を取り戻したというストーリーになります。(注1)つまり、ハッピーエンドにできるわけです。読んでいて、気分が良いのは、この小説スタイルです。

エッセイのスタイルは、小説で言えば、主人公は、悪者にやられたところで、話が終わっていることになります。つまり、エッセイには、主張を受け入れにくい認知バイアスがあります。一方、ハッピーエンドの小説であれば、認知バイアスは生じません。小説では、主人公がピンチになればなるほど、後の成功(問題解決)が際立って印象づけられ、読者にカタルシスを与えます。これが、エッセイですと、ストレスで終わってしまいます。

その意味で、小説には、エッセイにない力があるのではないかと考えるようになりました。これが、小説の執筆を試している理由です。エッセイの量が減ってしまう状況は、しばらく、続きそうです。

注1:

この典型的なパターンは、アンパンマンバイキンマンに見られます。