誹謗と批判の間にあるもの

インターネット、なかんずく、Twitterが出てきてから、誹謗中傷が、問題になっています。しかし、誹謗とは別に批判は進歩に必須の要素と思われます。しかし、現在では、批判は抹殺されています。この状態は、危険だと考えます。

バブル以前

1991年のソビエト連邦の崩壊までは、大学では、マルクス経済学を信奉する研究者が多数いました。このころの経済学部は、マルクス主義経済学者と近代経済学者が緊張関係にありました。

バブル頃までは、戦中派の政治家も多数活躍していました。戦中派の政治家とは、陸軍士官学校海軍兵学校の卒業生です。彼らは、身をもって戦中の大政翼賛会を経験していました。したがって、主義が違っても、批判は必要であると認識していました。人間は、必ず間違いをします。それは、批判によって軌道修正できなければ、暴走してしまいます。批判は必要と考えていたのです。

東京大学西部邁は、1988年に人事問題に端を発して、大学を辞職してしまいます。自分が、正しいと思った主張が通らなかったことに対する抗議行動です。西部の行動は極端ですが、こうした行動パターンをとる学者は少なからずいました。

バブルの前までは、「お金に換えられない主義主張がある」、「適切な批判をすることは知識人の社会的使命である」という通念が、社会に、広く浸透していました。

移行期

中国は、1980年代以来の経済の開放改革を進め、世界の工場になります。1986年には、ベトナムドイモイ政策を採用します。つまり、豊かになれれば、主義主張は捨てて構わないという考え方です。社会主義市場経済は、本来は、相入れません。ドイモイを、ベトナムが言い出した理由は、謎に見えます。それは、ドイモイが正しければ、ベトナム戦争は不要になるからです。1989年に、天安門事件が起こり、中国は国際的に孤立します。この時に、主義主張よりも、経済的利益を優先して、真っ先に、手を差し伸べた国が日本であることは、広く知られた事実です。

バブル以降

バブル以降は、世界が変わってしまいます。

本業ではなく、株式運用利益の方が大きな会社が出てきます。儲かれば、本業は関係ないという考えかたです。そこには、ビジネスを通じて、社会に貢献するという意識はありません。

主義主張よりも、お金や快適さが重要であると考えられるようになります。

人を、不愉快にすることは、全て、行うべきではないと言われるようになります。

小学校の運動会から、順位のつく競技は追放されます。

大政翼賛会が蘇ったように、反対意見はパージされていきます。

例えば、金融機関は、最近になって初任給1000万円以上で、IT人材を募集しています、金融機関が、数学や物理のできる人材が必要になったのは、1990年代に、金融工学が発達して以来のことです。金融機関は、その間、20年以上も、技術の内製化をしてきませんでした。これは驚くべきことです。組織内で、上層部の指令に対する反対意見がパージされてきた結果としか思えません。あるいは、批判的な人は、管理職になれなかったのです。

このブログのように、無料で、情報を掲載しているサイトが多数あります。そこを見ると、執筆の心がけみたいなことが書いてあります。誹謗中傷は、もちろんダメですが、読んだ人が気分を害することは書かないようにしましょうというガイドランを載せている場合もあります。このガイドラインに準ずれは、批判的な内容を書くことは、限りなくグレーゾーンになります。

「『DXレポート』と『2025年の崖』の衝撃 」(2021/03/11)で、金融機関のレガシーシステムのことを述べました。そのなかで、次のように申し上げました。


経営コンサルタントは、失われた30年の原因を理解していますが、顧客を失わないために、あえて、その原因を伏せているように見えます。


これは言い換えれば、経営コンサルタントは、顧客が気分を害することは書かないようにしているとも言えます。批判的なレポートを書くと、コンサルタントは失業するのです。しかし、これでは、経営改善ができず、コンサルタントに、大金を支払っている意味はありません。

批判的なことを書かないで済めばよいのですが、金融機関が、「2025年の崖」に面しているように、その付けは、大きくなって後で支払うことになると思います。批判は、改善につながります。批判を禁止すると改善が止まってしまいます。

香港問題、尖閣諸島問題も、このままいくと、日本は、「気分を害すること」は言わないで済ませて、天安門事件の二の舞になりそうです。ただし、国際社会が、天安門事件の時のように、日本の姿勢を許容してくれるか否かは不明です。なによりも、中国とのパワーバランスをどうとるかという政策決定は後回しにはできません。これは、相手が「気分を害すること」を避けてきた付けでもあります。

西部は、2018年に自死する前に、ネットに、「自分の人生は、結局は、無駄だった」という趣旨の書き込みをしています。これは、西部ほどの著名人でも、批判的な意見は、社会的にパージされ、影響力がなかったことの反映と思われます。

日本の社会システム全体が、小学校の運動会の延長線上にあるように見えます。

 

  • 「DXレポート」と「2025年の崖」の衝撃 2021/03/11

https://computer-philosopher.hatenablog.com/entry/2021/03/10/000000_2

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E9%82%81