モノクロ、線画とフュージョン
前回カラーを話題にしたので、モノクロについても触れておきます。
最初に、線画について触れます。写真では、線画という表現は基本的にはありえませんが、画像処理では可能です。
写真1は画像処理で作った線画です。西洋絵画の歴史には、浮世絵などが入る前には、線画はありません。漫画は、基本が線画なので、日本のアニメが人気があるのは、この点も影響しているかもしれません。線画も、目のフュージョンに対抗する表現であることを指摘しておきます。
さて、モノクロの表現は目のフュージョンでは原則ありません。しがって、モノクロ写真は、目のフュージョンに対抗する表現であるともみなせます。もちろん、歴史的に、写真でモノクロが多用された理由には、大きなダイナミックレンジ、高い解像度、現像と印刷のしやすさがあったことは事実です。しかし、モノクロ写真を見ると、目と脳は、色を再現しようとする傾向があります。この傾向は、動画でより顕著で、モノクロの映画や、テレビを見ていて、引き込まれると、モノクロであることは忘れてしまいます。
写真2と3は、古い建築です。現在の建築の色は、写真3のように色あせています。建築当初は鮮やかな朱色と緑だったはずです。写真2のモノクロの場合には、見る側に、そうした知識があれば、朱色と緑に見えるはずです。
写真6と7は、夜の原爆ドームです。筆者は、夜のモノクロ写真は各段の注意を要すると考えます。理由は2つあります。
カラー写真でも、黒い部分が多いので、カラーとモノクロの差がつきにくいです。
夜の風景で、暗くなると目のセンサーは、風景をモノクロとして認識します。このため、モノクロが、目のフュージョンに対抗する表現ではなくなります。つまり、写真6を見ても、色がないことに対する違和感がなくなります。(注1)
写真8と9は、フィヨルドの写真です。自然の風景で、色の効果は絶大なので、この2枚で、モノクロの写真の方が好みだという人は少ないでしょう。しかし、自然風景のモノクロ写真は、アンセル・アダムスの十八番です。アダムスの写真を見て、研究すれば、カラーを越えるモノクロ写真が作れるかもしれません。この画像は元がJpegでRAWではありません。
写真9を見ていて、この写真を撮影したときは、油絵の風景画を描くように、色による構図は頭の中にあったことに気づきました。つまり、色を外してしまうと、写真の意図が見えなくなるのです。そこで、写真10では、主題を滝と集落に集中するようにトリミングして見ました。トリミングの比率が大きいの画像が劣化していますが、モノクロ写真の主題の点では、写真10が写真8より、優れています。
写真11と12は、トルコの古い町並みです。この2枚で、モノクロがよいという人は皆無と思ってのせています。というのは、日本人で、このタイプの街並みを見たことのある人は少ないので、モノクロ写真を見ても色が付けられないのです。トルコの人が見れば、当然、違ってきます。
まとめ
写真は、目でなく、脳で見ているという事実をモノクロ写真は突きつけます。これは、目のフュージョンに対抗する表現です。この点を理解すれば、モノクロ写真にしかできない表現が可能と思われます。