表記法
将来の政策や経営を考える上で、一般には、上位Aと下位Bのヒエラルキーが考えられます。
BはAにしたがうという意味です。
A>B
と書けます。この表記法を使うとつぎのような記載が出来ます。
憲法(理念)>法律(制度)
戦略>戦術
組織の組み替え>組織内改革
国内産業構造の再編>倒産防止のための補助金
一神教>現世のご利益
比較的多いパターンは
Xについての理念>Xについての制度
です。これは、制度を変えるためには上位の理念を明確にしてチェックしなければならないことを意味します。
日本人は世界的には、本当のところ宗教を信じている人がすくないといわれています。
現世のご利益>八百万の神様
なのかもしれれません。
ヒエラルキーの現状
文部科学省はアドミッションポリシーを各大学に作ることを要請しています。
アドミッションポリシー>カリキュラム
が前提にあります。つまり、アドミッションポリシー(教育目標)に合うようにカリキュラムを考えなさいということです。
しかし、実際に、留年や、退学が発生すると、文部科学省からクレームが付きます。
仕方がないので、大学では、留年や退学が出ないようにカリキュラムを組みなおします。
こうすると、アドミッションポリシーとカリキュラムが合わなくなるので、カリキュラムに合わせて、アドミッションポリシーを作りなおすか、最初からアドミッションポリシーは、どんなカリキュラムにも適合するように作ることになります。どんなカリキュラムにも適合するアドミッションポリシーは、あっても、なくても同じですから、作成するコストが膨大な無駄になるだけです。つまり、次のようなヒエラルキーの逆転が起こっています。
留年や退学>カリキュラム
カリキュラム>アドミッションポリシー
以上のように、ヒエラルキーで見ると、ほおっておくと、日本の社会は次の性格を帯びやすいと思われます。
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上位のヒエラルキーである理念を設定できないため、制度を変えることができない。
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上位のヒエラルキーがないため、評価ができない。評価は本来は制度を変えるために、上位のヒエラルキーの視点で行うものです。この視点がないと、評価は個人攻撃になって、組織を壊します。
これは、ある意味では、混沌の世界です。世界は混沌であるという点で、認識が一致していればよいのですが、最近では、業績評価や、アドミッションポリシーのように、ヒエラルキーのルールが国際標準の名のもとに導入されています。しかし、社会が、ヒエラルキーを守らないのであれば、膨大な無駄の発生源になります。
本当に、日本には守るべきヒエラルキーがないのでしょうか。
この原因は、封建制度のヒエラルキーが残存していることにあると思います。理念がまともかどうかではなく、誰が言ったか(昔であれば殿様や将軍)が大事なのです。民主主義社会では、政治家は理念を掲げて当選します。その政治家が当選後権力を持つのは、理念を推進するために活動するからです。政治家の発言でも、理念に合わないものは、無視されるか、そうした発言を繰り返す政治家は公約違反であると批判されます。民主主義の政治家は殿様ではありません。しかし、日本の政治の多くは利益誘導型になっています。このため、選挙で理念が問題になることはありません。例えば、消費税の問題は、制度問題であって、どのような社会をつくるかという上位の理念の課題を無視して議論できるはずがありません。
封建制度が残っている限り、理念の話(新たなヒエラルキーの作成)をしても無駄なことは明白です。日本では、理念の議論が全く出てこない理由は、そこにあると思われます。封建制度というヒエラルキーが崩壊しない限り、日本の社会の閉塞状況はなくならないかもしれません。また、今、大学が抱える諸問題の根源も国際競争力を云々する以前の組織運営にあると言えましょう。