ここでは、哲学は何かを歴史的な展開の中で考えます。
哲学が、どのような学問かを説明することは、過去の哲学的成果をリストアップするよりは、かなり、難しいと思われます。それは、数学や物理学が、研究対象や研究手法を説明することで、その学問をある程度説明できることとは対照的です。
哲学は、考えることによって真理を追究する学問というのが、一つの答えではあると思われます。ただし、この答えは、問題を、「真理」と「考えること」に分解した以上の説明にはなっていません。
真理
真理については、数学的に扱うのであれば、存在証明、1価関数か、多価関数かがまず、整理される必要があります。しかし、歴史的な哲学は、この点の扱いはかなり無頓着と思われます。真理を明確化、厳密化、あるいは、限定化すると、哲学は数学に近づいていきます。現在では、こうしたアプローチの哲学もありますが、数学的な訓練を受けていないと、解読できなくなります。
考えること
考えることの内容は、混沌としていますが、おおよそは、「材料」と「方法論」にわけて考えることができます。
材料
材料は、何を題材にして、考えるかということです。実は、題材に関する哲学の扱いもかなり無頓着です。基本的には、材料は十分にある、不足しているのは考えることであるというスタンスです。不足する場合には、現象を観察してデータを得て、考えます。とはいえ、アリストテレスを除けば、観察は苦手な哲学者が多いと思われます。デカルトに至っては、観察を拒否すれば、真理に到達できるというすごいことになります。観察を拒否して得られた真理の公式は、観察を使って生きている実世界の真理の公式とは、別の公式になるので、仮に立派な公式が得られても、普通の世界での利用価値はゼロです。
アリストテレスの時代には、材料は誰でももっていて、どこにでもあるものでした。人間の体験の幅は狭く、多様性は小さかったのです。しかし、ルネッサンス以降、大きな変化が起こります。
1.顕微鏡と望遠鏡
大きな変化は、顕微鏡と望遠鏡の発明です。顕微鏡は、生物学を根底から変えます。望遠鏡は、物理学を作り出します。圧倒的な質と量のデータが新しい学問を作っていきます。
2.大航海時代と博物学
一方、従来の肉眼で観察する方法にも変化が訪れます。それは、大航海時代になって、人の移動範囲がひろくなると、肉眼で観察できる範囲でも、世界は多様なことが見出されます。その結果、博物館、植物園、動物園がブームになります。この手法は、利用者の利便性に合わせて、対象を切り取る点で、もとの状況が保持されない問題点を持っています。
方法論
哲学の方法論は何かという問題を正面切ってあつかうと大変なことになるので、ここでは、あくまで、簡単に考えればという前提で議論します。
投資家のジム・ロジャースは、ケンブリッジ大学で哲学を学んでいるのですが、彼は、哲学の思考の方法論は帰納法と演繹法であるといっています。この辺りが、最大公約数の方法論といえましょう。
科学哲学の誕生
以上のように、歴史的な哲学は、「真理」、「材料」、「方法論」の3つの切り口で、バージョンアップの可能性があることがわかります。
この3つのなかで、「材料」は直接目に見えるので、比較的取り組みやすいです。
ただし、問題は、物理学や生物学のように直接、材料集めに走れば、思考する時間が無くなって、哲学ではなくなってしまいます。そもそも、自らが材料集めに走れば、それは、物理学や生物学であって哲学ではありません。
そこで、哲学者は、観測値ではなく、得られた科学の成果を対象とするメタ科学として、哲学を再編します。
例えば、物理学の成果を材料にして、哲学的な手法を用います。これが、科学哲学です。
一般には、科学哲学は、哲学の一分野とみなされていると思いますが、明らかにこれは、哲学の拡張になっています。
ただし、これは、メタ科学であるため、エビデンスによる検証という手順からは、離れてしまいます。
科学哲学は科学にエビデンスを要求しますが、科学哲学の正しさはエビデンスによって担保されているのでなく、論理の正しさによって担保されています。しかし、この方法では、アリストテレス以降の哲学の持っている方法論の弱点が回避できているわけではありません。