アリストテレス哲学と古典の判定基準

哲学の成立

哲学とは何かについては、諸説があると思われるが、歴史的にみれば、ソクラテスプラトンアリストテレスが哲学という学問体系を作り上げたという点については、ほぼ共通の認識があると思われます。宗教哲学であれば、インドや中国により古い起源を見出すことができますが、論理を中心にした学問としての哲学が、ギリシアで初めてできた点は揺るぎません。特に、アリストテレスは、死後1000年以上にわたって、学問の主流をなしていました。アリストテレスの哲学に最初に穴をあけたのは、物理学で、まだ学問が始まって500年くらいしかたっていません。その間に、第1世代のガリレオ、第2世代のニュートン、第3世代のアインシュタインとかなり短期間に内容の入れ替えが起こっています。あと500年経ったときに、何世代の入れ替えが起こっているか、わかりませんが、アインシュタインの学説が、500年間、最終理論で置き換えが起こらないとはとても、思われません。

物理学以外の学問分野でも、学問の世代交代とコンテンツの入れ替えが行われていて、アリストテレスの記録は、破られそうにありません。

どうして、アリストテレスが1000年以上、学問の主流であったのかを考えると、次の検討すべき事項が浮かび上がります。

1.方法論上の課題

アリストテレスが1000年以上主流であったる理由、あるいは、現在もアリストテレスの著作を読む人がいることは、アリストテレスの著作には方法論適用上の間違いがないためと思われます。例えば、昔は、コンピュータがなかったので、手で円周率を計算した人がいます。しかし、ミスをして、ある桁で計算間違いをしてしまいます。このような場合には、計算間違いをした部分は、研究成果とは認められません。手法の適用上の間違いがあったからです。アリストテレスの方法論は、帰納と演繹です。この方法論の場合、数式を使わないと演繹の占める割合は小さく、帰納が主流になります。例をあげれば、歴史は繰り返すという方法論は、過去の歴史を帰納によって類型化すれば、同じパターンの繰り返しが見られるはずであると考えますが、この場合、法則によって演繹される歴史は、せいぜい次のステージで何がおこるかまでです。天体の運動の予測のように、演繹を繰り返すことができるためには、数式を使うことが必須と思われます。

アリストテレスの著作を、帰納を方法論としてみた場合には、間違いはないのです。しかし、帰納という方法論の使用上の間違いがないことが、帰納によって得られた法則に間違いがないことを保証しません。そのためには、検証が必要です。アリストテレスは、検証をしていないのです。ガリレオが出てきて、実験という検証法を持ち出したことは、大きな進歩でした。しかし、実験が使える場面は、例外的な場面にすぎません。どのような検証法が望ましいかは、データサイエンスの分野では、現在も検討が繰り返されている主要なテーマのひとつです(注1)。

2.古典の選択基準

古典(Classic)は、時代を経て残ってきたものです。これは、アートの評価基準としては正しいものかもしれません。とはいっても、再評価がおこったりして、時代とともに評価は変化します。古典は時代の選別をくぐり抜けてきたので、価値があるというとき、椅子取りゲームのように次第に絞り込まれるイメージを描きがちですが、これは、正しくありません。実態は、再評価と忘却がくり返されますので、椅子取りゲームではなく、マラソンに近い選別イメージになります。マラソンでも終わりのない、ゴールのないマラソンかもしれません。

 

古典の選択基準には次の解釈が可能です。

第1ルール:「内容の良いものが選ばれ、最新の生き残りが古典である。」

第2ルール:「内容の良いものが選ばれ、生き残り期間の長いものが古典である。」

第3ルール:「内容の良いものが選ばれ、将来も選ばれ続けるのが古典である。」

第4ルール:「内容に関係なく、火災や散逸を免れてきたものが古典である。」

第5ルール:「一度古典に認定されたものは、それ以降、比較評価をされない。」

アリストテレスの著作が古典ではないという人は少ないと思いますが、それでは、古典とは何かという選択基準問題を設定してみると、話は単純でないことが分かります。この問題は、思ったより根が深そうなので、分析は、今回はここまでにします。課題の整理と補足をします。

自然科学の検証に代わる人文科学の評価基準には、「古典」が用いられることがありますが、古典の選択基準は明確とは言えません。(注2、3)

 

3.残りものには福があるか

アリストテレスの自然哲学には、物理学も含まれていました。しかし、ニュートン力学の成功以降、物理学は単独の学問として独立します。現在は、アリストテレスの物理学を物理学史として調べる人はいますが、アリストテレスの物理学が有効だと考えている人はいないでしょう。アリストテレスが、万学の祖といわれる理由も、歴史的な評価を意味します。

アリストテレスの自然哲学と物理学の関係は、一般化されて、哲学から、物理学は派生したと考えられます。この場合、現在の哲学には、物理学は含まれないとみなされます。哲学は、物理学だけでなく、化学や生物学、経済学などの新しく独立した学問は含まないとみなされます。

この見方をすると、哲学は、残り物の学問になります。アリストテレスの時代には万学だったのですから、かなり、規模縮小になります。もちろん、ニュートン力学が出てくる背景には、世界は単純な法則でできているはずで、ちょっと、頑張れば、法則は見つかるはずだという信念が必要です。哲学はその信念形成に関与したという評価もあります(注4)。しかし、これを認めても、残り物になったという事実は回避できません。そして、残り物になったということが、アリストテレスの時代に比べて、学問の中での哲学の地盤沈下を招いたことも確かです(注5)。

 

注1:帰納という手法は問題も多いのですが、これを使わないと何も進まないので、仮説作成のスタートでは、必須の手法です。帰納から意味を取り除くと、パターンマッチングになるので、帰納は、パターンマッチングの特殊な場合になります。逆に、意味を入れると、複雑な仮説作成プロセスが可能になります。哲学はその典型と思われます。

注2:故朝比奈隆が、ベートーヴェンはあと100年は持つだろうといっていました。

注3:「土木工学は経験科学である」というように、工学系では、生き残った技術という評価があります。これは、古典に似ていると思います。ただし、ここでいう科学は、擬態科学で、自然科学ではないが、自然科学のふりをしたがっていると思います。自然科学であれば、古典の判定基準を用いるべきではありません。

注4:物理学が成功をおさめた結果、物理学が、他の科学の方法論に影響を及ぼします。生物物理学は典型です。問題は、物理学の成功が、アートに対する科学のように見えた結果、アートの学問が、擬装科学になった点にあります。

注5:残り物になった原因は、大風呂敷に、対象を広げた点にあると考えたのが、ウィットゲンシュタインです。彼は哲学は、論理を精緻して、問題を回避すべきと考えました。逆に、行けるところまで大風呂敷をすすめたのがハイデッガーと思われます。これは、イギリスの哲学と大陸の哲学の伝統的な立場に対応しています。