素朴な科学的方法論よりアートを

素朴な科学的方法論の課題

20世紀の後半になって、科学、特に、物理学が大きな成功をおさめるにしたがって、科学的な方法論が学問の世界に蔓延します。おそらく、科学に対比される領域はアートであると思われます。

  • 科学:方法論が明確で、その方法論にしたがえば、再現性がある。言い換えれば、誰がやっても同じ結果になる。

  • アート:ツールはあるが、方法論は、芸術家の頭の中にある。したがって、方法論は、外からは不明で、その芸術家が亡くなってしまうと方法論も途絶える。

アートであれば、絶え間ない競争を生き抜く必要があります。亡くなってからも評価される芸術家は1%未満で、屍累々の世界です。よほどの能力があるか、自信家でなければ、アートの競争には耐えられません。最低限の生活保障を求めるのであれば、アート分野で生きていくより、科学分野で生きていく方が得策です。そこで、似非科学(素朴な科学的方法論)が跋扈します。

例えば、大学の学科で、学科自らがアートであると自認しているところは少ないです。アートであれば、ツールや基本的なスキルは教えられますが、その先は、体系的な教育はできません。できることは、ケーススタディかケースメソッドだけです。簡単に言えば、演習はできるが、原理を描いた教科書はないということです。大学自らが、科学を教えていないというと、客観的な学問である判定基準を持っていないことを認めることになります。なので、通常は、科学であるという立場をとります。

典型的な例をあげます。会社を作って経営していくことはアートです。因果関係がわからない、データが不足しているので、これらの条件がそろわない場合には、科学としてはスタートできません。だからといって、会社を経営して、経済活動をすることが重要であることには異論はありません。そうすると、会社を経営することはアートだと考えられます。少なくとも、科学でないことは確実です。会社を経営することがアートであれば、科学的な分析にはあまり意味がありません。バッハの楽譜をAIで学習させて、バッハ風の作曲は出来ますが、その結果に皆が納得しないのでは、バッハの方法論は、バッハの死去と共に失われて、再現できないと皆が思っているからです。有能な経営者は有能な芸術家である可能性が高いです。なぜなら、経営に必要な情報は、普通は不完全情報なので、どうして、その意思決定をしたのかは他人には説明できないことが多いからです。

ここで、経営がうまくいっている会社とうまくいっていない会社があります。経営を科学的に(ここでは、データサイエンスの因果論ではなく、帰納的にというレベルですが)検討して、(それが解決可能な問題か、不可能問題かはわかりませんが、出来たらよいというレベルで)経営の成否が予測できる条件がわかれば嬉しいです。そこで、経営学という学問が登場します。経営学は、自らは科学であると主張したいわけです。そして、経営学を利用した、経営コンサルタントという職種が登場します。そして、経営を分析していくうちに、経営がアートでなく、サイエンスであると勘違いします。まあ、ここまでは、理解できなくもありません。

問題は次です。ある時に、突然悟ったように、「経営はアートである。経営者はアート感覚を磨かなければだめだ。」と言い出す人が出てきます。

アートを素朴な科学的方法論で処理できるように繕うことはやめましょう。アートはアートであると認めたほうがよいと思います。20世紀の半ばに物理学が成功をおさめるまでは、アートはアートであって、属人的な方法論であると皆がおもっていました。逆に、言えば、誰でも教育を受ければ、同じことができるという幻想、教育に科学的な方法論を導入すれば、誰でも同じ能力が得られるという幻想は、物理学の成功と工場における大量生産に20世紀後半に生み出された考えです。

現実は違います。プログラミングはアートです。起業して、会社を大きくしている人には、大学の中退組が多数います。教育で天才プログラマーはつくれません。もっと広く言えば、モノを作ることはアートです。大量生産の工場以外では、世の中を動かしているのは、以前として、サイエンスではなくアートです。この点を無視した、あるいは、曲解した素朴な科学的方法論は、それが蔓延しているだけに、問題が多くあります。