森デジタルアートミュージアム:エプソンチームラボ ボーダーレスに行ってきました。その前の週にルーブルに行ってきたので、2つを例に、ここでは、画像のスケール感について、考えてみます。
カメラの画角と人間の視角
カメラでは、スケール感に関係するパラメータに画角があります。画角は、写真を撮る上では2つの問題に関係します。
第1は、スケール感のある風景は、画角が広いので、広角レンズでないときりとれません。
第2に、これは、建築物をとる場合に多いのですが、目いっぱい後ろに下がっても、広角でないと全体が入らないことが多いのです。これは、ヨーロッパの教会の撮影でよく起きます。尖塔が高いのに、旧市街の道路は狭く、他の建物に遮られず、全体を撮影するには、広角レンズが必須になります。
スケール感に関連するのは第1の点で、カメラの画角が広いということは、そこに、人が立って見た場合にも、視覚が広くなることを意味します。おそらく、人の視角とスケール感はむすびついているのです。
視角があまりにも広くなりますと、人間は1度に全体をみることができなくなるので、視点を変えてみて、各シーンを頭の中で再合成します。
スケール感を出す第1の関門は、広角レンズをつかって、広い視角に対応した風景を切り取ることになります。
再生時(再現時)に第2の問題が発生します。再生時の視角を撮影時の視角に合わせることは難しいのです。
普通のプリントで大きめの印刷は、6つ切りまたはA4だと思いますが、このサイズでは、鼻がくっつくくらい近づかないと、広い視角はえられません。普通に離れてみて広い視角を実現するには、紙のサイズが大きいことが必須になりますが、これを実現することは容易ではありません。
標準画角が好まれるのは、撮影時の視角と再生時の視角の差が小さいためです。一昔前までは、広角は28mm以下を指しましたが、最近では、24mm以下を指すことが多いようです。全般に、昔より、広めの画角が好まれていますが、最近では、大画面で写してみることも多いので、紙の画像の時代より、再生時のサイズが大きくなっていることも関係していると思われます。
20世紀に入って、再生時の視角を大きくする革命的な技術があらわれます。投影法です。リバーサルフィルムを透過した光を使って、白い壁に画像を提示することで、画像のサイズの制約が非常に小さくなりました。また、この方法は、紙に印刷した画像から得られる、入射光が反射した光という制約も取り除き、画像に輝きをもたらしました。この技術は、映画として、商業的にも成功をえます。ただし、カラーが商業的に成り立つには、少し時間がかかりましたが。私たちは、カラー映画になれてしまったので、印象派の絵画が、光り輝く画像の再現を研究したといわれても、今ひとつ、そんなに明るいと感じることが難しくなりました。
ルーブル博物館
ルーブル博物館の収蔵品でおそらくもっとも有名な絵画はモナリザと思われます。この絵のサイズは、77 cm × 53 cm であり、視角によるスケール感が問題になるようなサイズではありません。
しかしながら、モナリザのような小さな絵は、例外的です。日本の美術館には、大きな絵は少ないですが、ルーブルでは、サイズの大きな絵が沢山あります。フランスのアカデミーでは、歴史的な逸話を題材に大きな絵を均衡のとれた構図で書くことが、正しい、美術のあり方であるとされてきました。そして、この条件に合う絵画が沢山展示されています。ともかく、サイズが大きいのです。
例を示します。「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」という絵で、6.21 m × 9.79 mもあります。なお、これは、自分で撮った画像なので、観光客が写っている部分をトリミングしたため、周囲が一部欠けています。
ルーブルの収蔵品の多くがかかれた時代には、絵画は、主要なメディアであり、大きな絵は、人々を圧倒させることができたのです。ベルサイユ宮殿でも各部屋に天井画が書かれていて、今の感覚では、なんとなくくすんだ絵にしか見えないのですが、これも当時の人を驚かせるには十分だったのでしょう。実際に、時間がたってくすんだ部分もあるとは思いますが。
森デジタルアートミュージアム:エプソンチームラボ ボーダーレス
この博物館は、2つの側面から形成されています。
第1は、コンピュータ制御されたプロジェクターを使ったデジタル映像です。デジタルアートでなければできない部分です。
第2は、実体展示です。この博物館では、広がりを出すために、鏡が多用されていますが、このアイデアはすでに、ベルサイユ宮殿の鏡の間で、実現されていますので、実体展示の一部とみてよいでしょう。
デジタル映像
次が、プロジェクターを使ったデジタル映像の展示の例です。一部のパターンは鏡に映ったものになっています。鏡は実体ですが、メインはデジタル映像にあるといえるでしょう。なお、鏡を使うと簡単に広がり感をだすことができますが、逆に、計算しつくされたデジタル映像の凄みみたいなものは希釈されるので、全体が水っぽくなっていると思います。
暗い中に、小さな様々な図形のパターンが点滅し、移動します。その結果、これらの図形に取り囲まれているという感じになります。暗い中に、小さなパターンがあらわれるので、個々には、視角やスケール感はまったくありません。会場はそれなりに広いのですが、スケール感がないので、たとえば、方丈(3.3x3.3m)の空間を作り、その中央に観衆がいて、6面に、デジタル映像を投影した場合を想定して比べると、広い会場を使った意味が感じられるものはありませんでした。逆に言うと、そうした方向感やスケール感がないことが、デジタル映像を非日常に感じさせる原因かもしれません。その結果、デジタル映像の中にいると方向感覚や水平感覚が失われ、テレビゲームのし過ぎか、乗り物酔いのような感覚になります。
実体展示
これは、ランプの部屋という実体展示です。四方の壁、床、天井と全ての面が鏡になっています。そこに、実体のランプがつるされています。見る人は、鏡の部屋の中に入って、周囲を見回すことになります。
この展示では、デジタルアートになっているのは、唯一ランプの色と明るさが変化する部分だけです。ですから、主体は実体展示と言えます。
部屋の中にいる人も映像の一部になります。この展示では、部屋の中にいる人を、積極的に展示の一部として設計しているという感じは受けませんでした。つまり、人がいないと展示になにか欠けているという印象は、受けませんでした。これは、ランプと人の関係が、ランプが一方的に、人を照らすという一方向の関係であったためと思います。例えば人が手をかざすと、ランプの明るさや色が変わるような双方向の関係であれば、違った印象になったと思います。なお、人と映像の関係が、このように映像から人への一方向であるという性質は、ランプの部屋に限らす、全ての展示に見られる特徴でした。プロジェクターは、人の有無にかかわりなく、一方的に、映像を流し続けるのです。ランプの部屋の中に入ると、他の人が見えます。ランプの数は一定で、部屋の中に入る人の数は可変です。人の数の増減に伴い、ランプの人の数の比率が変化し、それに伴い、展示の印象も変化します。今回は1回に入る人の数を制限していましたので、人が、ランプの映像をあまりさえぎらない範囲で展示をしていたと思います。床が鏡でしたので、安全面での入場制限であったかもしれませんが。結果としてこの展示が一番混雑して、待ち時間の多いものになっていました。実体展示が一番混んでいるというのは、観衆はデジタルアートより実体展示を好んでいることになり、デジタルアートを否定しているように思われました。なお、展示全体の1日の入場者数には上限を設けているようです。
この他にも、遊具や、風船を使った実体展示がありました。実体展示は、実体の上で、デジタルアートで、小さな画像を投影するか、ランプや風船の色と明るさを変えるという演出で、プロジェクターの数が多いので、機材を調整するのは大変だとは思います。その点には敬意を表しますが、どうしてこういう展示になるのか、展示で何を伝えたいのかといった意図は感じられませんでした。
まとめ
ダビンチのような天才を除いて、視覚の問題は、展示の本質的な問題と思われます。
デジカメでもリコーのシータとエプソンの3Dグラスを使ったことがありますが、
視覚は、圧倒的な効果を生じます。実は、スマホは3Dグラスの代わりをすることが
できます。こうした3Dの展示が可能な端末が増えてくると、現在は、プロジェクターで行っている操作はすべて、ソフトウェアに置き換わることになります。筆と絵の具が
デジタルブラシに代わったように、今後、アーティストはソフトウェアエンジニアになるでしょう。
その日は、近いと思われます。その点では、今回の森ミュージアムは、未来を先取りしているのではなく、新しい技術に乗り遅れているといえると思います。実体展示が一番混んでいたのはその例証と思われます。
チームラボは、多くのソフトウェアエンジニアで構成されています。おそらく、このことは、チームラボ自体が、一番よく認識していると思われます。現在のプロジェクター展示から、VRゴーグルによるフルソフトウェア展示に、いつ切り替えるか、作戦を練っていると思います。